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ブログ201301-201312

橋本努

 


 

■資源がありすぎると民主化できない

 

ドミートリー・トレーニン『ロシア新戦略 ユーラシアの大変動を読み解く』河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳、作品社

 

河東哲夫様、湯浅剛様、小泉悠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

著者は、カーネギー国際平和財団のモスクワ・センター所長。

本書は、ユーラシアの覇権を賭けた、ロシア・中国・アメリカによる政治ゲームについてまとめています。

本書の訳者解説は、とても重宝します。著者のトレーニンの認識では、ロシアという国は、16世紀に始まったヨーロッパの重商主義的な植民地主義の流れの上に建設されたままの国で、ルネッサンスや宗教改革、あるいは国民国家の建設や民主主義体制の確立といったものを経ないまま、現在に至っている、といいます。ロシアの資源戦略は、基本的には、収奪・搾取型のそれだ、というわけです。

 国家は、法治主義、所有権の保証、市場メカニズム、社会的な結束、相応しい価値観、などによって、はじめて近代的な形態になります。しかしロシアは、そうした国家の近代化を十分に経ていません。ではなぜ、近代化が遅れるのでしょうか。

近代化を妨げている最も大きな要因は、おそらく、「広い国土」と「豊かな資源」でしょう。「国土と資源」が十分にあると、製造業が育たちません。十分な資源を売れば、暮らしていけるからです。すると、その資源を政治的に差配するごく少数の人々によって、社会が支配されることになります。こうなると、結局のところ、中産階級が育ちません。社会は、資源を差配する一部の支配者と、資源を差配される多くの貧民に分かれてしまいます。社会は、階層的な格差を広げたまま、非民主的な支配を温存してしまいます。そういう情況を、いかに克服するかということが、ロシアではずっと問題でありつづけている、というわけですね。

 

 

■会社好きの日本人というのは神話

 

橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』幻冬舎

 

橘玲様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

世の中には「成功哲学」と呼ばれる指南書がたくさんありますが、そんな指南書に従ってやってみても、実際にはできない、というのがほとんどの場合でしょう。「こうすれば成功する」という主張はほとんど無効です。

それでも、社会のサバイバル感が増しているときには、何か成功するためのアドバイスが必要になります。無効だけれども、成功哲学は必要であるという、アイロニカルな状況ですね。

このこととはあまり関係ありませんが、本書が指摘するように、フロイトの「エディプス・コンプレックス」説が無効だという最近の研究成果は重要です。

 近親相姦を避けるというタブーの要請は、人間のみならず、チンパンジーやオランウータンにもみられるもので、その倫理は致死的な劣性遺伝子を避けるための進化論的合理性をもった倫理なのですね。

フロイトと同時代のフィンランドの人類学者、ウェスターマークは、発達期に一緒に過ごした男女は、血縁かどうかに関わりなく、性的魅力を感じなくなることに気づきました。そうした身体的反応は、劣性遺伝子を避けるための、生物学的な戦略として獲得された性質なのでしょう。

 もう一点。本書には、小池和男『日本産業社会の「神話」』日本経済新聞社のデータが紹介されていて、興味深いです。戦後の日本人は家庭よりも会社を大切にする「会社人間」だった、と言われますが、ここで示されるデータによると、国際比較では、日本人はそもそも昔から会社が嫌いだった、という結果が示されています。会社好きの日本人というのは、神話だったのですね。

 

 

■売家と唐様で書く三代目

 

見田宗介/大澤真幸『二千年紀の社会と思想』太田出版

 

見田宗介様、大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代の日本社会を担っている人たちの多くは、いわゆる「二代目」であり、次の時代の担い手たちは「三代目」になる。そのことの意味を考えさせられました。

 「一代目」は、猛烈に働いて、豊かな財産を築くことに成功します。「一代目」とは、戦後日本の高度経済成長を担ったサラリーマンであり、団塊の世代の人たちです。

これに対して、二代目は、第二次ベビーブーマーあたりの人たちです。二代目は、一代目の苦労を目の当たりにしていますので、一代目の苦労を引き継ぎながら、一生懸命に働きます。豊かさを増大させることに成功します。ところが二代目は、一代目と比べるなら、それほど苦労していないわけです。

すると「三代目」は、「あまり苦労していない二代目」の親たちを目の当たりにしながら育つので、一生懸命がんばって働くインセンティヴが弱まります。三代目は、働くことよりも、文化や趣味に生きることに、興味をもつかもしれません。一代目と二代目が築いた財産を、食いつぶしてしまうかもしれません。

三代目は、一代目が得た家を売る羽目になり、自分の家に貼り紙で「売家」と書いたりするわけです。ところがその字体が凝っていて、例えば「唐様」になっていたりする。三代目は、経済的には破綻してしまうとしても、文化的にかなり洗練されたところまで、自分の能力を高めることができる。そうした状況が、いまの日本社会で生まれている、というわけですね。

 一代目と二代目が築いた資産を食いつぶしてしまう三代目は、けしからん、と言われるかもしれません。一代目の人たちが汗水流して働いたように、三代目も一生懸命働いて、日本経済の成長を担うべきなのかもしれません。けれどもそれが難しい。

経済成長のために苦労することよりも、豊かな文化資本を身につけて、文化的に豊かな生活をする。家を売ってでも、文化や自然を楽しみ、また人間関係を豊かにしていくことで、幸せになれるような価値意識をはぐくんでいく。そういう文化資本の滋養こそ、人間本来の姿なのかもしれません。

 ところが私たちは、そのようにストレートには考えることができません。ストレートにはいかないところに、私たちの社会のジレンマがある。そのジレンマは、人間は本来的なものを求めるだけでなく、高田保馬のいうところの、「勢力」に突き動かされて行動するという面に起因するのかもしれません。集団として、あるいは個人として、人間は勢力を形成することに、大きな関心を抱いています。そういった人間を突き動かす動因があるかぎり、経済的に貧しくなって、精神的に幸せになろうという考え方を、日本人は手放しに享受することができないのでしょう。

 

 

■成功者が寄付責任を引き受ける社会

 

経済学史学会他編『古典から読み解く 経済思想史』ミネルヴァ書房

 

佐藤方宣様、平井俊顕様、藤田菜々子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 いわゆる経済学史と違って、経済思想史というのは、古典となったテクストをもとに、思考の体系性を問題にしています。その意味で、古典から読み解くというのは経済思想史の基本ですよね。全体としてよい入門書となっています。それにしても、経済学史の分野の学会が、学会として「経済思想史という言葉を用い、また理論史よりも思想史の研究にシフトしているというのは、現代の学問状況を反映しているような気がします。

 例えば、カーネギーは、製鉄会社の創立者として成功し、巨万の富を手にします。彼の著作『富の福音』(1889)は、富の集中と寡占が正当なものだと主張する一方、富者はその富を社会に還元する責任を負うべきだ、としています。

まず市場競争を通じて、有能な人間に富を集中させる。そしてその富でもって、無料図書館や学校を作る。カーネギーによれば、そうしたやり方の方が、政府を通じてやるよりも有効だというわけですね。成功した人たちがお金を家族に残すとか、あるいは、政府を通じて多くの人々に少額ずつ分配するというのでは、あまりよくない。むしろ別の方法がある。そうした考え方の背景には、社会進化(あるいは人類の進化)についての、一定の思想があるわけです。人間が少しずつ平等に進歩するよりも、圧倒的な富を有効に利用する方法があるのだ、と。

 この他、人口政策について、ミュルダール流の左派と、他方の保守派のあいだで一致している見解は、移民を排して、できるだけ少子化を食い止める政策を支持することでした。少子化を食い止めることは、一国経済(開発経済)の観点から、プラスになるわけであり、また育児は親の責任であるだけでなく、国家の責任でもある、という考え方ですね。

 

 

■ハッカーの倫理

 

塚越健司『ハクティビズムとは何か』ソフトバンク新書

 

塚越健司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ハッカーの世界には、暗黙に共有されている「倫理」があります。それはすなわち、「徹底した情報の共有」であり、それによって、官僚主義や権威主義に対立するコミュニケーションの世界を築くことが目指されています。情報が共有されると、よりいっそう、ハッキングの手口の創造性が高まるでしょう。サイバースペースに国家が介入せず、そこで自律的な自治をするというのが、1960年代のヒッピー文化から生まれた「自由の倫理」でしたが、ハッカーの世界は、その倫理を継承して、国家やその他の権威に対抗するわけです。

 既存の国家政策や法、あるいは裁判決定などを無効化することを目的とする点では、ハクティビズムは、アナキズムであり、サイバースペース上のアナキズム運動です。

 けれども、アノニマスの運動は、少し違います。アノニマスは、政策の無効化のための間接的なツールづくりよりも、直接的なパフォーマンスによって、社会に価値を訴えるという方法をとります。それは市民的不服従の論理だと言えるかもしれませんが、そのように言うためには「市民的不服従」の意味内容を、改めて解釈し直さなければならないでしょう。

 例えば、あるサイトに、匿名の人たちが、いっせいにアクセスするという攻撃行為があります。そのような行為は、しかし、誰が攻撃しているのか、その責任の主体をあいまいにしてしまいます。そうなると、誰が「市民的不服従」をしているのか、政治的な争点がみえません。「不特定市民の不服従」という、新たな概念が必要になります。

あるいは、情報のリークという行為があります。あるリーク行為は、現行の法律では不法であるとしても、市民的な理想の法の下では、正しいといえる、――そのようなことはあるのでしょうか。市民的不服従を実践することは、広く市民社会の倫理というものが国家の論理とは別に存在すると想定した上で、「悪法ではない正しい法」に照らして、自らの行為を正当化できるという確信がなければだめです。その確信はしかも、人々の是認を当てにできるものでなければなりません。

 ハクティビズムは、市民的不服従なのでしょうか、それともたんなるアウトローなのでしょうか。あるいはまた、ハクティビズムは、情報共有を求める反権威主義の倫理なのでしょうか、それとも社会運動による政治影響力の行使なのでしょうか。いろいろな考え方があるなかで、いまハクティビズムというものが、時代を象徴する一つの運動として現れているのでしょう。とても参考になる一冊です。

 

 

■本源的無知論は何を示唆するか

 

山根純佳『なぜ女性はケア労働をするのか』勁草書房

 

 山根先生、先日は研究会でのご報告ありがとうございました。

 本書の重要と思われる論点について考えます。

 ビーチィによれば、雇用主は、男性を雇用する際には、その男性が「家族(をやしなうための)賃金」を稼ぐ必要であると考える一方、女性を雇う際には、パートタイム雇用でよいとみなし、また熟練労働とはみなさない傾向にあるという。そのような雇用慣行の視点からみると、公共部門におけるケアワークは、女性にふさわしい職であるという「ジェンダー構築」がなされてしまう。公共部門における家事労働や介護は、家庭での女性の無償労働に似ているという理由で、ケアワークの理想像が構築されてしまうわけである。このような言説の構築は、家庭における性別分業によっても、構築されている。

 この点でよく参照されるのは、ギリガンの議論である。コールバーク批判にもとづくギリガンの「ケアの倫理」に対する評価は、しかし二分されている。(129) ギリガンの議論の、なにが問題だったのか。それは本書が指摘するように、(1)女性の多様性と、(2)一人の女性の内なる声の多様性の、二つの面を考慮していない点であろう。

 「女性」と一言で言っても、多様であり、女性にふさわしいケアの倫理という単一かつ本質的な倫理があるわけではない。また、一人の女性の中でも、内なる声は複数あるのであって、単一の声(良心)を倫理的指針として採用できるわけではない。こうした二つの面を考慮しなければ、安易なジェンダー構築を許してしまうことになるだろう。

 加えて、社会的なドミナントな言説となる「女性の声」は、言説の背景にある社会構造の観点からも、説明する必要がある。例えば、白人の中産階級女性にとって、ドミナントな道徳的発達のパタンは、それ自体として理想的な規範なのかといえば、そうともいえない。事実としての実践から、規範を導くことはできない。社会の構造によって構築される倫理の問題に対しては、批判的な解釈実践が必要であって、問題の本質を、たんに「道徳的」なものと捉えたり、あるいは、「人間的」なものだとか、「本来的な能力」だとかいった仕方で捉えると、誤ってしまうことになる。

 ある種の保守派は、こうした構築主義や批判的実践の考え方に対して、次のように応じるかもしれない。人は(この場合、女性は)、本来、何を欲しているのか、本来どんな能力をもっているのか、ということについて、なるほど私たちは、本来的なことは何も言えないということを認めよう。私たちは、この問題に対して、本源的に無知であるといえる。では、「無知」であるとは、いかなる規範的含意をもっているのか。それはすなわち、私たちは無知であるがゆえに、これまで人類が実践してきた伝統に依拠することに、一定の進化的合理性がある、ということだろう。

 「無知ゆえに伝統に従うべし」という議論は、なるほど一定の合理性をもっている。保守派は、このような議論を好むだろう。しかし、性差にもとづく分業は、伝統ではない。それは近代社会とともに形成された意識的な実践であって、自然なものだとか本来的なものだとはいえない。本源的な無知論は、伝統に従うことの合理性を主張する。しかしその伝統とは、私たちに何を命じているものなのか。それが曖昧な点に、問題の所在があるのではないだろうか。

 

 

■欲動増幅装置としての資本主義

 

沖公祐『余剰の政治経済学』日本経済評論社

 

沖公祐様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書が示すように、ロックやヒュームは、人間本来の欲望というものが「つつましいもの」であって、それだけでは近代的な市場経済はけっして駆動されない、と考えました。市場経済をドライブするためには、貨幣を通じて、奢侈と欲望をかき立てる必要があります。より多くの「余剰」を求める必要があります。

 ところが、アダム・スミスの場合は、あえてそのようには考えませんでした。もし労働者たちが、「近代的な中産階級」として育つならば、労働者たちの本来的な必要物は、むしろ増大するでしょう。労働者たちは、「結婚と増殖」を刺激されて、人口を増やすようになるでしょう。そのような仕方で「国富」が形成されていく、ならば、私たちは必ずしも、「奢侈」と「欲望」に期待する必要はない、というわけですね。

 スミスの経済学は、「奢侈交換論」から「必要交換論」への転換があります。では、マルクスの場合はどうでしょう。本書の読み方は、マルクスは『資本論』において、「単純交換論」というものを、純粋な考察のための「本流」「正常な進行」としました。しかしその結果として、使用価値の獲得ではなく、価値の増殖を目的とするような資本の運動が、非本来的なものとされることになります。その点に、本書は批判的なまなざしを向けています。

 「資本主義」というのは、スミスやマルクスが描いた像よりも、むしろロックやヒュームが描いた像、すなわち「奢侈交換論」によって、本質的に理解すべきではないか。それが本書の問題提起ですね。資本主義は、望ましくない。なぜならそれは、たえず自分自身の「欲動」をかきたてられるようなシステムだから、というわけです。

 これに対して「社会主義」は、人間の欲望を、集権的に制御するための「計画経済」体制を展望しました。けれどもそれはうまくいかないだけでなく、望ましくもない。とすれば、人間は自分で自分の欲望を制御する道徳的な主体として、道徳論の観点から想定される。そしてそのような点から、資本主義を道徳的に批判することになるでしょう。

 しかし別の観点からすれば、資本主義システムから自由になるためには、欲望をかきたてられるようなシステムを総体として乗り越えるのではなく、労働者がそれぞれ、資本に従属しない自由な領域を「熟練労働」という形で形成していくことが望ましい、とも考えられます。たしかに「欲望」の増幅は、資本主義システムへの隷属を意味するかもしれません。けれども、「欲望」ではなく「能力」の増幅は、同システムへの抵抗になりうるかもしれません。

 ドゥルーズのように、欲望の増幅の徹底によって、資本主義の要請を乗り越える存在(可能態)になる、という方向性もあると思います。けれども別の方向は、潜在能力(ケイパビリティ・ポテンシャリティ)の徹底的な増幅によって乗り越えるという方向もあります。そのようなことを考えてみました。最終章はとても啓発的です。

 

 

■ローンの心理的ストレスを動員する政治

 

五野井郁夫『「デモ」とは何か』NHKブックス

 

 五野井郁夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 アメリカの私立大学では、1年間で300万円程度の学費がかかります。800万円というところもあります。在学中の4年間で、1,200万円から3,200万円の学費をすべて、「学資ローン」でまかなうとすると、大学を出た若者たちは、たとえ一流企業に就職したとしても、最初は「借金人間」として、貧しさを経験するでしょう。

 どんなに優秀なエリート予備軍であっても、若いときは下層階級に共鳴する下部構造あります。

 若者たちだけではありません。99%ムーブメントの関係で、ニューヨーク・タイムズだったかウォール・ストリート・ジャーナルだったかに載ったある記事を読んでいたら、ある中産階級の家庭で、自分たちは年に一回、一週間ほどヨーロッパを旅することが精いっぱいで、とても豊かさを実感できていない、というようなことが書かれていました。そういう中産階級も含めて、現状に抗議する直接行動を、心理的に支えている土壌があるのでしょう。そのストレスにはいろいろな要因があるでしょうが、リーマン・ショック後に、経済が鈍化・停滞したというのが、一つの要因かもしれません。しだいに貧しくなっていく局面で、そのストレスを社会的に表現したくなる。

 直接行動の担い手たちが、「ウォール街」に対する批判に的を絞ったというのは、示唆的です。いわば、アメリカにおけるローン地獄の心理的な過酷さに、照準したわけですね。住宅ローンと学資ローン。

 問題は、前の世代が、富を残さなかったからなのか。あるいはそもそも、アメリカでは「自立」の理想のために学資ローンを組まなければいけないからなのか(これは現代に限った問題ではない)。それとも、ブッシュ政権時のアセット・ベースの政策によって、住宅ローンが奨励されたからなのか。いろいろな理由が考えられます。いずれにしても、ローンの心理的なストレスがあって、それを社会運動家たちは、感情的に動員することに成功したということかもしれません。

 

 

■最も恵まれない層に対する保障のありかた

 

萱野稔人編『ベーシックインカムは究極の社会保障か』堀之内出版

 

 萱野稔人様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 2012年、橋下徹が代表を務める大阪維新の会は、「ベーシック・インカム」をかかげて、福祉行政のスリム化と福祉の自己責任化をめざすための、「制度設計」をめざすと主張しました。

 この主張によって、ベーシック・インカムは、再び政治の論争点になっています。

 民主党はこれに対して、2011年末の段階で、消費税の増税によって不利益を被る低所得層に対する補償として、「給付付き税額控除」という制度をかかげました。

 「ベーシック・インカム」と、「給付付き税額控除」。この二つの違いが、政治的に争われます。「給付付き税額控除」の場合、低所得層の人々にとって、自分の所得が増えれば、給付金も増えます。つまり、「給付付き税額控除」は、働けば働くほど、追加的に給付金がもらえる点で、労働へのインセンティヴを与えています。これに対して「ベーシック・インカム」は、労働へのインセンティヴをあたえず、所得を得ようと、所得なしで過ごそうと、すべての人々に対して、一定の基本所得を給付するわけです。

 はたして、労働に対するインセンティヴを、公的制度を通じて与えるべきなのかどうか。これを認める立場は、詳しい説明は省きますが(拙著『帝国の条件』参照)、「新保守主義」であると言えるかもしれません。

 これに対して、「ベーシック・インカム」の立場は、労働へのインセンティヴから自由な社会を理想とする点で、「福祉国家型リベラリズム」と親和的なのですが、ベーシック・インカムとリベラリズムの違いは、さらなる問題を提起します。つまり「ベーシック・インカム」は、最も恵まれない層に対して最大の利益となるような社会を、必ずしも展望しないわけです。「ベーシック・インカム」論は、「最も恵まれない層」の定義に対して、異議を申し立てる理論でもあるのです。

 いずれにせよ、民主党はリベラルなようで、この問題に対しては「新保守主義」的であり、これに対して、大阪維新の会は、新自由主義のようで、リベラルと親和的でもあるという、ねじれた現象になっていますね。

 

 

■ケインズは新しいタイプのジョン・ローだ

 

ハイエク『ハイエク全集U-2 貨幣論集』池田幸弘・西部忠訳、春秋社

 

池田幸弘様、西部忠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

ハイエク全集の第二期ということで、本書は、ハイエクの『貨幣発行自由化論』の新訳を含んでいます。私は学部生のころ、この『貨幣発行自由化論』を読んで、まったく実効性がないハイエクの提案に驚き、また思想的な刺激を受けたのでした。

本書に所収されている論文「通貨の選択」の補論「古くからの迷信」で、ハイエクは、ケインズを批判しています。それはいまのリフレ論議と大いに関係するので、一部引用してみます。

「私には、ケインズはいつも新しいタイプのジョン・ローのように見えていた。ケインズと同じように、ローは実際に貨幣理論に貢献した金融界の天才だった(…)。ローは『このような追加的な貨幣は働いていない人を雇用し、すでに働いている人にも大きな利益を与える。このようにして、生産物は増加し、製造業は発展していく』と述べている。ローと同様に、ケインズはこのような誤った、しかし人口に膾炙(かいしゃ)した[多くの人にとって口当たりのいい]信念から決して自由になれなかった。」(20)

 ジョン・ローからケインズに至るインフレ主義の歴史について、ハイエクは誰かが書くべきだ、と述べています。過去150年にわたって、この種のインフレ政策は、失敗であったのであり、独創性に富む人々の知的努力は、繰り返し無駄に費やされてきた、というのがハイエクの見解です。

 インフレ政策(脱デフレ政策)は、短期的には成功するかもしれません。けれどもその副作用は、市場の健全な調整作用を失うことであり、長期的には、無駄な生産と停滞をもたらすでしょう。日銀法を改正してまでインフレーションを導くべきかどうかについては、大いに議論が必要ですが、政権交代のための政策の焦点とすべきではなく、むしろ参議院を通じて、慎重な仕方で、超党派的な合意を得るべき政策問題であるようにみえます。

 

 

■スカイツリーは、「バベルの塔」か、それとも「ストゥーパ」か。

 

中川大地『東京スカイツリー論』光文社新書

 

中川大地様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

大変な力作ではないでしょうか。様々な資料を猟歩して、スカイツリーの歴史的・社会的イメージを豊かに浮かび上がられています。スカイツリーとは、私たちの文明の、一つの誇りとして位置づけられるほどの建築物なのですね。

 中沢新一によれば、「塔(タワー)」には、二つの系譜があります。一つには、農耕による富の蓄積によってはじめて国家文明を築いたメソポタミア文明(あるいは黄河文明)における、「バベルの塔」の系譜。もう一つには、インドの古代神話のような、国家以前の新石器時代までさかのぼる、原初的な思考法に基づく「ストゥーパ(仏塔)」の系譜です。

 「ストゥーパ」というのは、大地のなかで、墓地や生命の根源につながるような、非線形的で無意識的な、本質的構造をもっています。建物の上部には、きまって、渦を巻いた開口部があり、それは、子宮内から外へ立ち上がることが表現されているとも考えられます。

 こうした「ストゥーパ」の要素を、中沢新一は、東京タワーや通天閣にみてとります。しかし、スカイツリーにはストゥーパの要素がない、と論じます。これに対して本書は、いや、スカイツリーにもストゥーパの要素があって、周囲の土地全体が、震災と戦災の墓地なのだというのですが、なるほど説得的に論じられていると思いました。

 

 

■「普遍的正義」と「共通善」のパッケージ

 

仲正昌樹『2012年の正義・自由・日本』明月堂書店

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 リベラリズムとコミュニタリアニズムについて理解するための、コンパクトに整理された入門的な講義になっていると思います。

 最後の議論が面白かったです。

 日本の大学は、もっと第三世界の諸国の学生を受け入れて、国際貢献すべきである、という議論があります。しかしそのための大学の予算は、限られています。大学は、留学生を多く受け入れる場合には、日本人の学生定員を減らして、しかも、日本人学生が支払った授業料の一部を、留学生のために用いる必要があります。こうした政策に、私たちはどこまで納得するでしょうか。

 貧しい国の留学生を受け入れれば、その国の経済発展に貢献するだけでなく、日本の経済発展にも貢献する可能性が高いでしょう。グローバル社会の所得格差は、やがて狭まると期待できるかもしれません。また、日本の社会が、グローバルなコミュニケーションに開かれ、いろいろな場面で、普遍的な正義を実現することに資するかもしれません。

 しかしそのためには、日本の学生とは異なる入学試験を課して、別枠で入学させる必要がありますね。留学生は、日本語にハンディがありますからね。するとダブル・スタンダードで入試をするということになります。するとその場合、留学生を多く受け入れるための入学試験は、公正な基準を満たしているのでしょうか。留学生の受け入れは、「普遍的正義」の理念に基づくものなのでしょうか。それとも、グローバルな貢献という、「善」の理念に基づくものなのでしょうか。

 どちらでもないのかもしれません。大学は基本的に、日本人学生を優先して合格させるべきなのかもしれません。ではそのような主張について考えてみましょう。この主張は、入試試験の「公正さ」を優先するという点で、「正義」の基準を満たしているのでしょうか。それとも、日本の大学が、日本人の学生をできるだけ多く教育するというシステムは、日本人の学力を高め、日本の国力を上げるという「共通善」の基準を満たしているのでしょうか。

 結局、この問題は、「普遍的正義」と「共通善」の単純な対立に基づいているのではなく、「普遍的正義」と「共通善」の、ある特定のパッケージの仕方が、複数ある場合に、どのようなパッケージを選択すべきか、という問題になるのかもしれません。

 

 

■無限を捉える有限存在について

 

正村俊之編『コミュニケーション理論の再構築』勁草書房

 

正村俊之様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 15世紀に活躍した神学者、クザーヌスは、著書『神を観ることについて』のなかで、興味深いことを述べています。神は、不可視的であると同時に、可視的であるのだ、と。神が不可視的であるというのは、神は「無限の存在」であって、他との区別に基づいて認識されるような「有限な存在」ではない、という意味です。ところが私たち人間は、神をなんとかして認識しようとします。その認識のあり方について、クザーヌスは次のように述べています。

 

 「絶対的な眼差しは、自らのうちに、あらゆる眼差しの様式を包含しているのであるが、それも個々の眼差しの様式が、全体の眼差しの様式であるような仕方で、包含している」のだと。

 

つまり、神の絶対的な眼差しは、すべての「個々の眼差し」のなかに、存在するというわけですね。

 ここから正村先生は、イエス・キリストのメディア(媒介)的な働きを踏まえたうえで、メディアの本質も、同じようなものだと、類推します。コミュニケーション・メディアは、無限の可能性を縮減することによって、情報空間を開示しながら、コミュニケーションを開示する、というわけです。258頁。

 メディアが媒介するのは、ある特定の文化だとか文脈(コンテクスト)ではなくて、特定の文化・文脈を超えたものです。メディアは、文脈を超えて、発達することができます。それはいわば、グローバルに開かれた働きをするのであり、たとえば日本語というメディアも、日本文化の特定の基盤を超えて、作用することができます。そのようなメディアの発達が、無限の可能性を秘めたグローバル社会の認識につながっていくということですね。

 

 

     イベント性をもった社会運動

 

富永京子様、ご論文一式をお送りいただき、ありがとうございました。

 

 約二年前に東大院に提出された修士論文の成果が、こうしてさまざまな論文の形で刊行されていくことを、とてもうれしく思います。思い出せば、洞爺湖サミットというのは、富永さんが学部生で私のゼミに参加されていたときの出来事ですよね。そのときの反グローバリズム運動が、どんな意味をもっていたのか。ご論文でさまざまに分析されています。

 なるほどと思ったのは、研究ノート「社会運動のイベント性が生み出す運動参加」『ソシオロジ』所収で、述べられている事柄です。

 サミットに対する抗議運動というものは、そもそも、既存の社会運動に対する対抗として出てきたという面がありますね。サミット抗議運動は、「イベント性」の高い運動で、つまり、薄い政治意識でも参加ができるようになっている。多様な人々が集まるので、個人間の理念の対立があっても、それは「多様性があっていい」とされます。サミットは、局所的に、ある特定の場所で開かれるので、場所性があります。しかもサミットは、短期間の、一時的な出来事なので、それが終わってしまえば、参加者たちは自動的に、とりあえず運動から退出したことになりますよね。(ご論文では「退出が容易」と書かれていますが、そもそも終わってしまえば「退出したことになる」のではないか、と。)

 加えていえば、対抗運動だけでなく、サミットそれ自体も、イベント性がある会議ですよね。イベント性を利用して、グローバル化が進んでいくと同時に、反グローバリズム運動も盛り上がっていく。そういう共犯関係があるというか、あった。ところが現在では、あまりそのような共犯関係が見られないので、それはどういうことか、ということも分析が必要でしょう。

 ご論文「グローバルな運動をめぐる連携のあり方」(『フォーラム現代社会学』所収)では、サミット抗議行動において、これまでの国際的な抗議運動ではぐくまれてきた、レパートリーそのものを伝達したい、継承したい、という動機が、反グローバリズム運動の中核的な担い手たちを突き動かしているというインタビュー結果が、とても興味深いです。

 ある運動参加者の語りです。

 「[運動の]グローバルスタンダードって点からみると、世界的な大きい国際会議があって、それに対してG8に参加している国々[の運動]がそれまでやってきていることを日本[の活動家]がやらないなんて、おかしいじゃないですか。だからやっぱり、何が何でも、やらなきゃ。」

 こうした事柄を、中核的な担い手たちは、毎日のように語り合っていたというわけですね。反グローバリズム運動を「継承」することそれ自体が、社会運動家たちを突き動かしていたというのは、大変興味深い事実ですね。

 

 

■共産主義とは、新たな歴史が潜在的に可能であることの肯定である

 

コスタス・ドゥズィーナス/スラヴォイ・ジジェク編『共産主義の理念』水声社

 

沖公祐様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 バディウが語っている言葉は、真実だと思います。共産主義という言葉を、うまく用いることができるかどうかは、私には分かりません。けれども、共産主義という言葉が、政治的なもの、イデオロギー的なものとしてではなく、一つの「理念」として作用するというのは、真実です。

 バディウの言っていることをそのまま繰り返すことはできないので、私なりに読み替えて表現してみましょう。

 共産主義は、人間が主体化することの理想を、いわば、潜在能力の無限の開花として捉えます。そんなことは可能なのかといえば、不可能なのですが、一つの人間的な目標になりえます。

 この目標を立てるのか、立てないのか。「共通善」のみをかかげるコミュニタリアニズムは、そのような理想を掲げないでしょう。また、ある特定の卓越した価値を掲げる「卓越主義」も異なるでしょう。

では具体的に、潜在能力が無限の方向性をもって開花していく、というのは、どんな場面でしょうか。それは、歴史が無限の可能性に開かれて展開すると考えられるような「ある地点」において、自分の存在を投げ出すことでしょう。

 「原発反対」「TPP反対」など、個々の論点においては、どちらの立場が、共同体全体の象徴的な理念を担うことになるのか、不確定です。そのような状況に身を投げること(決断すること)によって、人間は、自分の物質性を、社会的な象徴化の作用と結びつけることができます。そのような「政治的主体化」によって、個人は、はじめて、象徴的に構築された物語としての歴史の担い手になることができます。それと同時に、潜在的な可能性を手にします。現実的なものを現実的なものとして受け入れるだけでは、主体化を遂げることはできないでしょう。かといって、潜在的な可能性の開花という主題を、非政治的にとらえてしまうなら、自身の中の「潜在能力」を勢力として実現するという政治的な力の働きに、無頓着になってしまいます。

 つまり、政治的にどの主張が正しいか、という問題に答えを与えることと、政治的人間になることとは、決定的に異なります。正しさの問いに支配的な答えがなくても、あるいは支配的な答えがないからこそ、人間はそのような問いを生きることができる。と同時に、自分の無限の可能性を開いていくような契機を手にすることができるのだと思います。

 ただ、バディウの言っていることのなかで、「現実的なもの」を、「真理の手続きそのもの」として捉えることは、どの程度有効なのでしょうか。ラカンのいわゆる「主体の三つの審級」とは、「現実的なこと」「想像的なこと」「象徴的なこと」からなっています。このうちの「現実的なもの」をどのように解釈するか、という点で、「共産主義」という言葉の特殊性が生まれるのではないか、と思いました。

 

 

■アメリカの輸出依存度はOECD最下位。

 

石破茂×宇野常寛『こんな日本をつくりたい』太田出版

 

宇野常寛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書で紹介されている興味深いデータの一つに、日本のGDPに占める輸出の割合、つまり輸出依存度があります。OECD34か国のなかで、日本は33位。輸出依存度は、14%程度です(2010年のデータ)。

 これに対して、たとえばドイツは、輸出依存度が38.5%です。フランスは20%。イギリスは18.3%です。最下位はアメリカ合衆国で、8.7%。アメリカのように自由貿易を是とする国でも、輸出にはあまり依存していないのですね。

 ドイツやフランスのように、国境が隣接している国は、たしかに輸出入が容易なのかもしれません。けれども、アメリカも、カナダやメキシコと接しているわけで、決して不利なわけではないでしょう。

 いずれにしても、日本において輸出産業を強化するために、何が必要なのか。それを考えるとき、たんに円安にすればいいと発想するのではなく、日本の文化産業を積極的に売り込んでいく方向性を、もっと考えるべきだというわけですね。

 

 

■金持ちほどセコいのか

 

若田部昌澄/栗原裕一郎『本当の経済の話をしよう』ちくま新書

 

若田部昌澄様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 やはり、レヴィット著『やばい経済学』からのネタ紹介が面白いですね。

 ベーグル売りのフェルドマンは、ベーグルを無人で売ることにしました。ベーグルの近くに、代金回収箱を置いておいて、お客に「一個一ドル」の代金を支払ってもらうようにしました。支払いをお客さまの「良心」にまかせて、ベーグルを売ったのです。すると、代金の回収率は9割程度だったそうです。うまくいきました。

 ところが観察から分かった興味深いことは、ホワイトカラーや役員クラスのお金持ちの人の方が、代金をちょろまかす確率が高いという点です。お金持ちなのに、セコいんですよね。「良心の呵責」にさいなまれないのでしょうか。言えることは、ずるくて、セコい、という性格は、出世する確率と正の相関をもっている、ということかもしれません。

 もう一つ、これも『やばい経済学』のネタですが、日本の相撲で、八百長がなされる経済的動機を分析したものです。八勝六敗の力士と、七勝七敗の力士が、千秋楽で対戦する場合、七勝七敗の力士が勝つ確率は、歴史的にデータを分析してみると、八割程度もあるそうです。

 これは、裏で取引がなされているのではないか、という推論をかきたてます。力士にとって、八勝七敗と七勝八敗とでは、大きな違いがあります。他方で、すでに八勝六敗の力士にとっては、最後の対戦で、九勝六敗になるか、それとも八勝七敗になるかの違いは、あまり大きくありません。そこに取引の余地が生まれる、というわけです。

 

 

■社会関係資本の強化という介入主義

 

稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル入門』中公新書

 

稲葉陽二様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 アメリカのペンシルヴェニア州にある、人口千数百人のロゼトという田舎町は、南イタリアのある村から移住してきた人たちが作った町です。スレートの石切り場が、主たる産業です。興味深いことに、この町の住民は1950年代から60年代にかけて、心臓疾患による死亡率が、周辺の町や全国平均と比べて大きく下回っていました。なぜでしょう。

 ある分析によれば、この町では「コミュニティの絆」が強いため、安心感が生まれ、それが心筋梗塞や突然死の可能性をきわめて低くした、というのです。

 本書はこのような分析に触発されて、日本の地域についての実証研究の成果を報告しています。近所の人々に対する信頼とか、親戚への信頼、近所づきあいや地縁活動への参加などから、コミュニティの絆が強いかどうかを分析します。すると、コミュニティの絆が強い地域では、健康である、病気になっても容易に支援が受けられる、などの結果が得られます。反対に、コミュニティの絆が強くないところでは、人々は孤立し、喫煙や飲酒や過食などに陥りやすい、ということです。

 ある程度まで想像つく結論ですが、言われてみると、改めて考えさせられます。政府は、個人に対して、健康に生きることができるように、介入することができます。例えば政府は、地方自治体を通じて、町おこしのための、さまざまな行事・サービスに公的資金を使うことができます。するとその結果、個人は安心して暮らすことができるし、健康にもなる。そういう社会関係資本がある社会に住みたいですね。

 

 

■「賢い人」と「弱い人」

 

猪木武徳『経済学に何ができるか』中公新書

 

猪木武徳様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 人間は、完全な知識を持っていないわけで、だからこそ制度を通じて、賢明な生き方というものを合理的に考えられるように、制度を設計する必要がある、というのが本書のテーマですね。

 しかし経済学では往々にして、情報は与えられていると、最初に仮定されてしまいます。そのような経済学の限界を見極めながら、政策を導くところに、思想の重要なテーマがあるといえるでしょう。

 アダム・スミスは、『道徳感情論』のなかで、「賢い人(wise man)」と「弱い人(weak man)」について語っています。「賢い人」は、自分の内面にある「偏りのない観察者の視点」にしたがって、公正で醒めた判断をすることができます。自己をコントロールすることができます。これに対して、「弱い人」は、世間からの称賛を求めて、野心と虚栄心に突き動かされます。

 自由な人間とは、この場合、「賢い人」のことです。「弱い人」は、他人に依存していて、真に独立した充足を得ることはできません。けれども、私たちの近代的な市場社会は、この「弱い人」の情念によって、巨大な富を築いてきたといえます。

 スミスは、「弱い人」の文明論的な意義を認めます。世の中がすべて「賢い人」たちによって営まれるとすれば、それは決して、巨大な富を創造することはなかったでしょう。

 そこで問題は、「弱い人」がいかにして、弱いまま賢明でありうるのか、ということになるでしょう。弱さをプラスに転化する仕組みについて考える。それが経済学的思考のテーマと言えるかもしれません。

 

 

■原発縮小のシナリオ

 

橘川武郎『電力改革』講談社新書

 

橘川武郎様、岡部ひとみ様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 原発54基を縮小するシナリオについて、本書の表1-4にしたがって考えてみます。

 まず、福島第一原発にある6基の廃止です。これはほぼ確実でしょう。

 次に、福島第二原発にある4基の廃止です。

 第三に考えられるのは、浜岡原発の廃止です。すでに1,2号機は廃炉が決まっていますが、3,4,5号機を廃炉にする方向で考えることができるでしょう。

 第四に、これは他の分類と重なるところも多いのですが、プルサーマル発電の原発の廃止です。福島第一の三号機、高浜の三号機、伊形の三号機、玄海の三号機です。

 第五に、40年以上稼働している原発の廃止です。福島第一の三号機を含めて、三基あります。

 最後に、30年以上40年未満の稼働をしている原発です。福島第一の2-6号機を含めて、16基あります。

そのほかを含めると、合計で54基になります。

 重複する部分を考慮した上で、例えば、福島の原発すべてと、30年以上稼働している原発を廃止していくと、23基を廃炉にすることになるでしょう。約半分を廃止することになりますね。

 問題は、まだ30年の稼働に満たない原発です。けれども、今後、10年単位で考えると、原発はやはり「老朽化」するわけであり、そうした理由から、廃炉にすることができます。政治的に争われるのは、2030年代の後半の段階で、はたして原発をゼロにするのかどうか、という点でしょう。

 廃炉にする費用と、廃炉にしないが稼働もしない場合の原発の資産評価を天秤にかけると、どうなるのか。そういう問題を含めて、リアルに考えなければなりません。

 

 

■出版社、倒産ギリギリからの物語

 

栗原哲也『神保町の窓から』影書房

 

栗原哲也様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 日本経済評論社の社長、栗原さんのコラムをまとめた本です。出版業界のよもやま話が満載です。

 栗原さんは大学を卒業されてから、最初は、文雅堂銀行研究社という出版社で、雑誌『金融研究』の編集をされていたようです。ところが同社の展望が見えないということで辞職、あらたに先輩たちと日本経済評論社を立ち上げたのが、1970年の秋だったそうです。

 創立から5年間はピンチもあったようですが、70年代の後半には、20人の社員を抱える会社に成長しました。ところが創立から10年目、19813月に経営の危機を迎え、債権者集会が開かれました。そのときの債権者の意向を受けて、栗原さんは社長に就任します。そして倒産ギリギリの状況から、会社を立て直されたのですね。その時に残った社員は、谷口京延さんと、入江とも子さん、そして入社半年もたたない清達二さんの3人だけだったそうです。 (谷口さん、そうだったのですね!)

 栗原さんは述べます。

 「ここで畳んでおけば後のたたりはなかったのでしょうが、多くの債権者はそれを許しませんでした。逃げる方法も知らず、また度胸もありませんでした。未來社の先代西谷能雄さんが『そんな会社にかかわるな。お前も家族も目茶苦茶になるぞ』と忠告してくれましたが、もう手遅れでした」と。

 本書は、その後の奮闘記です。日本経済評論社が、いかにたくましいか、ということが分かります。社長への尊敬の念をあらたにしました。

 

 

     おいしい牛丼の背後で

 

平井達也・田上孝一・助川幸逸郎・黒木朋興編『グローバリゼーション再審 新しい公共性の獲得に向けて』時潮社

 

田上孝一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書の序文につづいて、2編の詩があり、それから第一部、第二部、第三部とつづくのですが、音楽やファッション、戦争や浮世絵など、興味深い話題が盛りだくさんですね。

 「肉と野菜をバランスよく食べよう」といわれますが、それは非常識であって、肉を食べなくても大丈夫、というのがベジタリアンの田上さんの主張です。

 牛丼について言えば、なぜアメリカ産の牛肉でないと、牛丼用の肉としては味気ないのでしょう。

 アメリカではまず、生まれたばかりの牛を12か月前後放牧します。それから六か月くらいかけて、穀物を与えて飼育して、脂肪の割合が増え始める直前のピークで屠畜します。すると、濃厚な味の牛肉として出荷できるというわけです。

 ところがその場合、牛はおよそ一年半しか生きることができません。しかも、最後の六か月は、牛はフィードロットという狭いところで飼育されます。これは動物虐待だ、というのですね。もっともです。しかも、フィードロットで与えられる飼料(大豆やトウモロコシ)は、肉一キロを生産するために10キロ前後も必要です。その飼料は、必ずしも人間にとって適したものではないかもしれませんが、それを直接食べたほうが、よっぽど人間にとって栄養的かもしれないというご批判は、なるほどと思いました。

 

 

■目標は物価安定ではなく金融システムの安定

 

原正彦編『グローバル・クライシス』青山社

 

原正彦様、鍋島直樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 20世紀の後半の50年間を、さらに前半(1950-1975)と後半(1975-2000)に分けてみますと、前半は「ケインズ全盛の時代」で、後半はその反動の、「ケインズ凋落の時代」だった、といえるでしょう。そして21世紀です。現在、ケインズの貢献が見直されていますが、本書は、現代のケインズ主義の観点から、経済の現状を分析した論文集です。

 ケインズは、失業問題を克服するために、政府による「投資の社会化」を提唱しました。長期的な視野から投資を安定させることが、クライシスを防ぐための方法だと考えました。

 長期計画にもとづいて、民間の投資が減少したときには、それを補うための「資本予算」を計上すべきである、とケインズ考えました。この発想は、短期的な裁量的政策とは区別されなければなりません。長期的な投資管理政策は、たんなるアドホックな短期的発想にもとづくものではありません。そもそも短期的な裁量政策の発想は、ケインズには見られない、というのが鍋島論文の主張です。

 鍋島論文の後半では、現代のポスト・ケインジアンの議論が紹介されています。ポスト・ケインジアンは、金利政策よりも、財政政策の有効性を主張する一方で、金融政策については、「物価の安定」ではなく、金融システムの安定そのものを目標とすべきだと考えます。この考え方は、「インフレ・ターゲット」を主張する最近のマクロ経済学者たちと、鋭く対立するものでしょう。アベノミクスには反対の立場になるのではないでしょうか。日銀の役割とは何か。改めて考えさせられました。

 

 

■ポストモラトリアム時代=ロスト近代

 

村澤和多里・山尾貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち』世界思想社

 

村澤真保呂様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

最近の若者たちは、ある意味でかわいそうだ、というのですね。

これまで若者たちは、一定の「モラトリアム(執行猶予期間)」を与えられて、大人が果たすべき義務から免れてきました。例えば大学では、講義に出席しなくても、比較的簡単に単位を取ることができました。出席の縛りがあまりなくて、自由な時間を過ごすことができました。ところが最近では、講義への出席を含めて、大学生たちはさまざまな義務を求められるようになり、自由な時間を謳歌できなくなってきたようです。

 すると大学生は、内面的な「葛藤」を通じて、自分なりに自己を確立していく余裕がなくなってきたのではないか、というのが本書の関心ですね。

 私は拙著『ロスト近代』で、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」という時代区分を提案しましたが、本書は、ほぼ同じような時代区分でもって、「古典的モラトリアム」「消費社会型モラトリアム」「ポストモラトリアム」という三つを分けて分析しています。

 「ポスト近代」が終わったころから、日本社会には余裕がなくなってきました。とりわけビジネスの世界は、若者たちに「即戦力」を求めるようになってきました。社会に余裕がないので、若者たちを育てようとか、優遇しようという風土がなくなってきます。「ゆとり教育」は撤回され、大学では授業日数や取得単位が厳格化されるようになりました。高校も大学も、まるで「就職のための予備校」のような性格を前面に出すようになる。つまり学生たちに「モラトリアム」を許さないような状況が生まれているというご指摘は、その通りだと思います。

では、これまでのようなモラトリアム時代のほうが、若者たちにとってよかったのか、という問題になりますね。これは大いに議論しなければなりません。

 別の視点からみれば、「ポストモラトリアム」の現代社会は、大人たちにもモラトリアムをある程度分散して与えているから、若者がとりわけ特権的にみえなくなった、ということかもしれません。社会の「分化」と「複雑化」がすすむと、「自己不確実」感や、「閉塞」感、あるいは「保険感覚」や「無関心」や「自己責任」などの心理は、若者だけでなく、大人たち一般にも、みられるようになったのかもしれません。すると問題は、自分なりに自己を確立するという青年心理の物語そのものが、あるいは理想そのものが、別の理想に代替される可能性が出てきた、ということではないでしょうか。考えさせられました。

 

 

■命名は、人間中心主義を抑制する

 

R・シュペーマン『原子力時代の驕り』山脇直司・辻麻衣子訳、知泉書館

 

山脇直司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 シュペーマンは、キリスト教を背景にして、原発に反対する論理を組み立てています。その内容の一部に、人間中心主義に対する批判があります。キリスト教は、人間中心主義を避けようとします。例えば聖書は、神が人間に、自然支配を委託するという説明を与えていますが、その委託において、人間は動物に命名します。命名は二つの役割をもっています。一つは、命名された動物を、人間の意のままにできるというものです。もう一つは、命名されたものが、その自立的な存在性格を与えられて、たんなる「利用」の対象とは区別されるというものです。

 人間中心主義の立場から、人間の生存のために環境を保護すべきである、という発想では、どんどん自然が破壊されていく。「人間の生存」のためにではなく、むしろ、動物たちの自立した生存を望む立場から、命名を考える、あるいは自然を保護していく。そのような発想が必要というわけですね。

 

 

■「歴史」の観念が生まれなかったインド

 

大澤真幸責任編集『THINKING O(オー)011、左右社

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「同一性の継続」を主題とする中国の歴史観と、「差異の反復」を主題とする地中海型の歴史観。そのはざまにあって、インドは「歴史」そのものに関心を示さなかった、というのは興味深いですね。

 「中国型の歴史」では、「善をもたらす正統なるもの」が継続している。そしてその継続を刻むことが、「歴史」であるとされます。「悪」は、「攪乱的な例外」である、とされてしまいます。

これに対して、「地中海型の歴史」においては、「善と悪の抗争」から、善の勝利というものが、物語的に引き出されます。

ところが、インドの場合、想定される「善」は、世俗的な世界の内側には存在しないので、歴史物語を構成することができません。

 仏陀によれば、「一切皆苦」であります。そのような発想をとると、「苦」からの解放は、歴史の展開において達成されるのではなく、世俗世界を超越することでもって達成される。「善」というものが、「苦からの解放」であるなら、それは「この世」において到達されることがありません。この世には「悪」だけが支配することになります。すると、「最後には善が勝つ」という「歴史の物語」なるものは描かれないわけですね。

 ある意味で、「善なるもの」は、全能感の解放であり、それは仮想的な世界でもって到達されるのでしょう。あるいは「可能的なる世界」で到達されるのでしょう。そのように考えてみると、善というのは、歴史を駆動すると同時に、歴史を終わらせるもののように見えてきます。

 

 

■言語の起源は記号のトートロジー的理解にある

 

大澤真幸『動物的/人間的 1.社会の起源』弘文堂

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これから全四巻で完結する予定の第一巻ということですね。最近の文化人類学や社会生物学の成果を取り入れて、独自の理論をさらに発展させようとするその挑戦に、心から敬意を表します。

 チンパンジーの実験で、ある意味記号(例えば、きいろという色)が、それを表す概念(例えば、ひし形プラス横線の図形)を指示するということを、チンパンジーは理解できるようです。

 ところがその反対の因果関係となると難しい。おなじ抽象概念を示しても、それが「きいろという色」を意味することが、チンパンジーには、理解できません。

 「意味M→記号S」を理解できても、「記号S→意味M」という関係を理解できない。これでは言語を理解したことにはならないのではないか、というわけですね。この二つの相互的な因果連関を「同時に」理解できないということは、そもそもチンパンジーは言語を理解できず、したがって言語の起源を人類と共有していない、と考えられます。

 おそらく、記号Sが、それ自体として「きいろいもの」を意味するということを、チンパンジーは理解できなかったのでしょう。言語記号Sは、個々の意味の対象Mとは独立して、言語そのものによって意味されるものを意味しています。それはトートロジーによって定義されますが、にもかかわらず、言語記号として、意味を与えます。そのような言語の成立が、まだチンパンジーには見られない、ということなのかもしれません。いったい「言語」とはなにか。その本質と起源は、トートロジーにあると考えられますね。根源的な問題に迫る興味深い考察です。

 

 

     信頼の拡張装置としてのインターネット

 

第二次惑星開発委員会『プラネッツ Vol.8

 

宇野常寛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本当に半端じゃない編集力ですね。読みどころ満載の雑誌です。

 最初の対談を興味深く読ませていただきました。「僕たちは〈夜の世界〉を生きている」というテーマですが、これはつまり、これまで日本社会を変えてきたのは、いわゆる「市民社会」派の活動であったり、あるいは経済における「ものづくり」の職人的な技であったりしたわけですが、そうした活動よりも、これからはサブカルチャーやインターネットが社会を変えていく、という読みですね。

 日本型のイエ社会の構想力は、血縁関係の「家」を超えて、会社や関連業者を巻き込んで、人々のあいだで厚い信頼関係を築いていくことに成功しました。日本経済の成功の最後には、そのようなコミュニケーション能力の旺盛な発露があったと考えられます。

そのコミュニケーション能力の豊かさは、今度はインターネット上で、例えば「iモード」のようなものを産み出し、世界をリードしているのだ、と。

 ただ、ネット上のソーシャルメディアが、権威主義の政治を崩壊させることに成功したとしても、民主的コミュニケーションを練り上げて成熟させるような装置としてうまくいくかは、未知数ですね。

 LINEの成功にしても、それは、ソーシャルメディアの発達を示すというよりも、むしろ「友達とメールさえできればいい」という程度のコミュニケーションで事が足りている人たちがたくさんいて、そういう人たちの基本的なニーズを満たしている、ということですね。夜の世界たるソーシャルメディアが、社会を変革するための議論の場となるような事態は、まだあまりみられない。

 日本で発達してきたのは、LINEのスタンプのように、自分をあるキャラクターに模して、つまり「キャラ化」を通じて、自己を表現するということです。匿名でもなく、なまの自分でもなく、ある種のアバターなのでしょうが、自分を「分化」させた一つの人格として、ネット上で演技を引き受けるキャラクター(人物)となる。

こうした、ペルソナとしての人格形成(整形?)を通じて、ネット上でさまざまなコミュニケーション作法が自生的に生成していく。それがまた、新しい時代を築いていく、というのはある意味で、コミュニケーションの正統な発展のようにみえます。

 

 

■二層功利主義の批判レベルは一つだけか

 

田中朋弘『文脈としての規範倫理学』ナカニシヤ出版

 

田中朋弘様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 最近の倫理学説の重要なものが、分かりやすく、しかも深く掘り下げて紹介されています。一気に読ませていただきました。視野がとてもひらけた気分になりました。

 ヘアの二層功利主義について考えてみます。「直観レベル」と「批判レベル」を分けて、これらをうまく組み合わせるのが最良の功利主義、ということでしょう。

 その場合、「批判レベル」での道徳的思考は、ヘアによれば、「一見自明な原則」というものに従うのではなく、むしろ、そのような原則を、個別の場面で、徹底的に疑うことができる、といいます。無限に明細的で、個別的な判断に至ることができる、としています。

 しかし、批判というのは、こうしたある意味で、情報に制約のない状況に身を置くことができる、という想定のもとで機能するものに限定してよいのでしょうか。むしろ個別の状況に身を置きながらも、圧倒的な無知に囲まれた中で働くような批判的能力もあるでしょう。それは「批判レベル」の道徳的思考として不十分ということになるのでしょうか。

 私には、「批判的能力」の性質を二つに分けて考えてみたほうがいいように思います。いまその論理をいろいろと考えているのですが、例えば、「直観レベル」における「自明の原則」の二つが齟齬をきたした場合に、どちらをどのように優先するかという判断は、無限に明細化できる個別の状況に依存するというよりも、メタ・ルールのようなものに依存している可能性があります。そのようなメタ・ルールにもとづく判断もまた、批判レベルに存在するのだとすれば、批判の方法にはいろいろあって、それらをもっと分節化していく方向があるのではないか、と思いました。

 このように考えてみると、功利主義的な思考は、「二層」では収まらず、「多層」的なものになるかもしれません。

 

 

 

平井俊顕『ケインズは資本主義を救えるか』昭和堂

 

平井俊顕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 新しい古典派は、社会哲学における「ネオリベラリズム」に対応し、これに抗する形で、「ニュー・ケインジアン」がある、という構図ですね。

 新しい古典派は、非現実的な人間像を前提としているので、その理論がいかに実証されたとしても、その有効性が示されるわけではありません。そこに、ニュー・ケインジアンの余地が生まれます。価格の硬直性を認める立場から、有効需要の問題と裁量政策是認の立場が導き出されます。

 ニュー・ケインジアンたちは、「ニューIS-LM」モデルなるものを定式化しますが、しかしこれによって世界経済危機を説明できるわけではありません。ただアメリカのオバマ政権は、経済危機後に、プラグマティックな理由から、ニュー・ケインジアンの政策含意を取り入れたわけであり、そうだとすれば、この時期からネオリベラリズムは退潮して、再びケインズに支配を譲った、という物語になるかもしれません。

 ただ、そもそもサブプライム・ローンを組ませるようなインセンティヴを与えたのは、アメリカ政府の政策でした。そのような政治的背景があります。アセット・ベースの社会を作るための市場介入です。政府がローンを推奨し、結果として焦げ付いたのだとすれば、そもそもの原因は、政府がアセット・ベースの市場介入をやるべきではなかった、ということになると思うのですが、いかがでしょう。いやいや、サブプライム・ローンの問題がなくても、世界経済は遅かれ早かれ恐慌に陥ったであろう、というのが、ケインジアン的な発想かもしれません。

 

 

     時事テーマから思想史へ

 

仲正昌樹『《日本の思想》講義 ネット時代に、丸山眞男を熟読する』作品社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 とても内容豊かな、啓発的な講義だと思います。

 2010年に日本でサンデルがブームになって、日本版の白熱教室と称して、いろいろな試みがなされてきました。しかし、おっしゃるように、そうした白熱教室を通じて、「正義」や「共通善」や「共和主義」について、なにか理解が深まった、という話はほとんど聞きませんね。まして日本発の、新しい規範理論が、そこから展開されたという話も、ほとんど聞きません。

 ご指摘のように、時事的なテーマというのは、深まる前に風化してしまい、人々の関心は別のところに移ってしまいます。それで、いつも似たような話が繰り返される。そうだとすれば、もっと腰を据えて、思想史を研究する意味がある、ということなのでしょう。

 

 

     熟議は過激化する

 

キャス・サーンスティン『熟議が壊れるとき』那須耕介編訳、勁草書房

 

那須耕介先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 いくつかのとても興味深い論考が収録されています。熟議は、熟慮あるコンセンサスに向かうのかというと、そうではなくて、極化する。そういう可能性が、人びとの集団行動のなかにある、ということですね。さすがに裁判の過程では、陪審員の判断が極化することは望ましくないだろうと思いますが、別の場面では、個別の熟議の極化は、全体のなかで一定の意義をもっているかもしれません。私は「熟議は熟さない」ということを言っているのですが、熟議のデザインそのものが、規範的な問題になるのだと思いました。

 第五章の「第二階の決定」も、興味深いです。所得再分配のようなシステムは、どのような意思決定によって実行的になるのか、また正当化されるのか、という問題に照らして考えると、「格差原理」の問題が、また別の角度からみえてきます。第五章はまだアイディアの域を出ていないですが、この方向で規範理論を発展させていく余地があるでしょう。

 

 

     「エコ社会主義」の提案

 

ショラル・ショルカル『エコ資本主義批判』森川剛光訳、月曜社

 

森川剛光様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 インド人で、1982年に西ドイツに移り住んだショルカル(1936-)は、西ドイツの「緑の党」に入党するのだけれども、その5年後に離党します。1997年には、ATTACの立ち上げに参加しています。

 おそらく、ドイツの「緑の党」が、現実と妥協する姿に耐えられなかったのでしょう。ショルカルは、真のエコロジーを求めて、思想的に徹底した考え方を探求していきます。持続可能性を維持するために、経済の定常状態と、今日よりも低い生活水準を受け入れ、また、平等政策や人口抑制政策、あるいは社会主義の下での道徳的な成長、などを推進すべきことが、本書で提案されます。「エコ社会主義」のイデオロギーを明確に示した、貴重な著作です。

 

 

     綿の収穫をまつトラック

 

エリック・オルセナ『コットンをめぐる世界の旅』吉田恒雄訳、作品社

 

吉田恒雄様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 世界中を旅しながら書かれた本です。

 例えばアフリカのマリで、綿花あるいは種子の荷下ろしを待って、約600台のトラックが、数週間も待機している、という話が出てきます。綿の収穫期に、そのような光景が見られるのですね。ただトラックのオーナーは、トラックの運転手ではありません。オーナーは別のところにいる。また、トラックで常時待機しているのは、運転手ではありません。まだ運転免許を取得していない、運転手の見習いです。見習いの人たちは、運転免許を取得するために、稼がなければなりません。でも見習いが得るのは、賃金ではなく、ほんのわずかの食事とお小遣いのみ。そんな過酷な状況で働いている。

 といっても、待機している間に、トラックにいろいろと装飾する。素朴派の絵の傑作が、そこから生まれるというわけですね。

 

 

     支配的な「語り方」から解放されるために

 

桜井厚『ライフストーリー論』弘文堂、現代社会学ライブラリー7

 

桜井厚様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

「体験」と「経験」のほかに、「語り」という次元があります。

「経験」というのは、自分の体験を認知的に反省したものですが、それは言語行為としての文化慣習にはあまり左右されないものとして、認知主義的に捉えられます。これに対して「語り」というのは、インタビューする人との間で制作される、共同作業そのものです。ある体験を認知的に明示化したものではありません。

その「語り」というものが、人生を物語的に捉えるための手段となります。インタビューは、たんなる観察ではなく、参与観察であり、物語を構成するという「実践」のための手段になります。

 インタビューによって明らかになる「物語の構造」を、ラボフが整理したように、「アブストラクト」「方向づけ」「複雑化する行為」「評価」「結果、解決」「終結」という具合に分けてみるのは、興味深いですね。

 「物語」というものは、「ある社会において支配的な語り方」に左右されます。支配的な語りに対抗するには、「混沌の語り」、あるいは「反ストーリー」という実践が必要になります。支配-被支配の関係に着目すると、物語のモデルそのものにも自覚的に対応しなければなりませんし、また自分の人生の物語が、どこまで物語的であるのかについても、支配的なモデルとの関係で、反省してみないといけないですね。

 

 

     貧民窟に住んでいた清水幾太郎

 

若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂、現代社会学ライブラリー6

 

若林幹夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 社会学者の清水幾太郎は、貧民窟と呼ばれた東京の柳島横川町に住んでいて、そこで関東大震災に遭遇し、その後生じた、諸々の事件(例えば、大杉栄一家の虐殺、朝鮮人の殺戮など)に刺激されて、自分の一生を社会学に捧げようと思った、ということなのですね。

 清水幾太郎は、それまでは医者を志望していたけれども、一家が無一文になってしまって、それまで読んできたアナキズムの文献から得た断片的な知識に火がついてしまったようです。その頃、社会学というのは、まだほとんど知られていなかったでしょう。社会学を志すというのは、大きな決断だったと思います。

 その際、清水幾太郎は、自分の視点を、フランスの社会学者、コントと重ね合わせたようです。コントは、敬虔なカトリックの両親に育てられてきたのですが、フランス革命の経験を通じて、新たに「知的卓越」のみを「権威」とするような、啓蒙思想を打ち立てます。混乱期を生きたという点で、清水はコントと自身を重ね合わせたのですね。

 

 

     復興・成長か、自律か

 

吉見俊哉『アメリカの越え方』弘文堂、現代社会学ライブラリー5

 

吉見俊哉様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

敗戦を通じて、日本帝国の遺産の大部分は、アメリカの覇権構造のなかに組み込まれていきます。戦後の日本は、アメリカの傘下にあったからこそ、東アジアにおいて「欧米」的な位置を占め、準帝国的な地位を保持することができたのでしょう。日本の植民地主義は、敗戦によって終わったのではなく、それは形を変えて、つまりアメリカを中心とする覇権構造のなかで、再生産されていった、というわけですね。日本は、アメリカ支配を受け入れ、自身のアイデンティティの内部に、アメリカを組み込みました。

では、アメリカを排して、植民地主義を排して、日本独自の共和国を作るというのは、理想でしょうか。「自律」や「アイデンティティ」の観点からすれば、一つの理想なのでしょう。しかし現実の日本は、アメリカ支配のもとで、東アジアの諸国を支配するという、「支配-被支配」の関係に組み込まれます。またそのなかで、日本の繁栄が可能となり、日本人はその繁栄を自己同一化していきます。それが戦後の日本人の自画像です。

しかし根本的なところでは、戦後の「復興」や経済の「成長」というのは、日本人の「自律したアイデンティティ」と相いれない。そういう角度からアメリカを批判する視点をもつことは、意義深いです。

 

 

     パノプティコンの徹底からその解除へ

 

大澤真幸『生権力の思想』ちくま新書

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

ちくま新書、1,000冊目という、記念すべき一冊を、大澤先生が担いましたね。

とてもスリリングで、理論的にも、また事例の奇抜さという点でも、興味深いです。パノプティコンは、個人に対して、潜在的に可能な、永続的な監視を続けます。その結果として、個人は絶えず自分を反省するようになり、内面の自律の契機を手に入れます。

 ところが、私たちの社会では、人が行為の度に残していく個人情報(データシャドウ)があまりにも膨大になった結果として、このパノプティコンのメカニズムが、働かなくなっている。事態はまったく正反対で、人々は、潜在的に可能な、永続的な監視体制のなかで、たえず自分を反省するどころか、むしろ自分がパノプティコンの監視人であるかのように振る舞うようになっている。

 あるいは人は、見られていることの不安ではなく、他人から注目されていないこと(承認を受けていないこと)に対して、不安を抱くようになっている。これはどうしてなのでしょう。

 「上から目線」でブログに書き込むようになっているとか、携帯電話の「接続感覚」とか、人々が「パノプティコンの監視人」のように振る舞うようになっているとか、いろいろな現象があるわけですが、こうした人々の振る舞いが、どうして潜在的に可能な監視の極限状態で生じるのでしょうか。不思議であることに変わりありませんが、監視の多極化と、自身もその監視の担い手になりうる(つまり監視される/監視するという二つの作用の担い手になりうる)ことが、関係しているのかもしれません。

 

 

     ユニテリアニズムから新しい自由主義へ

 

有江大介編『ヴィクトリア時代の思潮とJ.S.ミル』三和書房

 

有江大介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 イギリスのヴィクトリア時代は、新保守主義にとってのいわば故郷とされますが、その中心人物の一人がJ.S.ミルで、ミルと関係する様々な人物が、本書で紹介されています。ジョン・ロックの『キリスト教の合理性』を継承したプリーストリーはその一人で、自然観と聖書教育の関係をどのように考えるか、ということがテーマになっています。また、プリーストリーに影響をうけた、ハリエット・マーティノゥと、メアリー・カーペンターの紹介も、興味深かったです。舩木惠子論文を参照。

 イギリスのユニテリアニズムが、19世紀末に、ジェームズ・マーティノゥによって形而上学的な倫理学として整理され、それがニューリベラリズム(新しい自由主義)の思想の背景となったことは興味深いです。アメリカではこの思想がプラグマティズムに継承されていくのですね。

 

 

 

     社会主義経済計算論争、もう一つの学説史

 

森岡真史『ボリス・ブルツクスの生涯と思想』成文社

 

森岡真史様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大変な力作であり、経済学史・経済思想史における意義深い貢献であると思います。ボリス・ブルツクスという経済学者は、社会主義経済計算論争に出てくるという点で知られているわけですけれども、ロシア人で、西ドイツに亡命したということで、その全体像はなかなか描かれずにいました。今回、さまざまな資料を駆使して、全体像に迫った本書は、世界的にみても最高水準の成果ではないでしょうか。

 ブルツクスは、ミーゼスと似たような主張を同時期にしたことで知られます。ですが、現実のロシア経済を追いながら、ネップの成果を承認しています。

 むろん、マルクス主義とナロードニキ主義に対しては、いずれも批判的で、むしろブルツクスは、非資本主義的な経済組織が、副次的・補完的に、資本主義と併存されるような社会を展望しました。ナロードニキのように、自給自足の農耕生活を理想化するのではなく、平凡だが勤勉な民衆が、民主主義を通じて経済を運営できるようなシステムを展望しました。

 ハイエクは、ブルツクスの社会主義批判に感銘を受けて、1935年に、彼の本のドイツ語版に、序文を寄せています。また、1954年には、社会学者のベンディックスとリプセットが、ブルツクスのドイツ語の論文を英訳して、論文集『階級・身分・権力』に収録しています。

 ユダヤ人であったブルツクスのアーカイブは、エルサレムのヘブライ大学に保管されています。その資料を基に、最近、研究が進んでいます。妻のエミリヤの日記も刊行されたとのことです。興味深いですね。2000年には、オーストリア学派のピーター・ベッキが、ブルツクスの社会主義経済計算論争に関する本を復刊しています。

 

 

     人生あきらめれば、幸せになれる

 

水野和夫/大澤真幸『資本主義という謎』NHK出版新書

 

水野和夫様、大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 アンケートではなぜ、70-80年代の若者よりも、現在若者のほうが「幸せ」だ、と答えるのでしょうか。その理由を考えてみると、「幸せ」というのは、将来に対する人々の期待の関数になっている。つまり70-80年代の若者は、実際には幸せだったけれども、社会はもっと発展するのだから、将来のほうが「もっと幸せになれるにちがいない」と想像するでしょう。すると「今あなたは幸せですか」と聞かれて、「まだ十分、幸せではない」と答えることになります。

 ところが現代の若者は、将来のほうがもっと幸せになれるだろう、社会も発展するだろう、という期待をもつことができません。すると、いまが一番幸せなのであり、将来はリスクがあって、いまの幸せを維持できるかわからない、ということになります。だから「いま幸せ」と答える。

 現在の自分を、まるごと「幸せ」であると感じるためには、将来の自分が、もうこれ以上幸せになれないだろう、というある種の悲観というか、あきらめがなければなりません。あきらめると、幸せになれる、というのはひとつの社会学的真実なのかもしれません。

 

 

     お金を理解した上で、お金と無縁の世界を生きる

 

山口揚平『なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?』ダイヤモンド社

 

山口揚平様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ピカソは、お金のことをよく理解していました。しかしそれでも、「お金のない世界」を生きることができました。「お金のない世界」とは、「人びとが自由に自己の創造を楽しんでいる状態」のこと(本書、201)です。お金をうまく得ながらも、お金とは無縁の「創造の世界」を生きることが、理想の人生なのでしょう。

 例えばピカソは、自分の絵を売るときには、なじみの画商を数十人も呼んで展覧会を開き、作品を描いた背景や意図を、細かく説明したそうです。すると画商のあいだで「競争原理」が働き、作品の値段は十分に上がりました。

 ピカソはまた、少額の買い物の場合でも小切手を使っていたそうですが、それはなぜかというと、ピカソは有名なので、おそらくピカソ直筆のサインが入った小切手をもらった人は、それを換金しないで部屋に飾るだろう、だから自分は最終的には支払いをしなくて済むだろう、とピカソは考えることができたからです。

 ピカソは、シャトー・ムートン・ロートシルトという、高級ワインのボトルのラベルをデザインしています。ピカソはそのときの対価(デザイン料)を、ワインでもらうことにしました。ピカソの描いたラベルの評判が高まれば、ワインは高く売れます。するとピカソは、対価としてもらったワインを、ある程度保存したのちに、高く売ることもできます。これは、ワインを売る会社にとっても、よいことですね。ピカソとワイン会社は、信用でもって、互いに利益になるような契約を結んだのでした。

 

 

     知的創造過程をデザインする

 

ジョセフ・ジャウォースキー『源泉 知を創造するリーダーシップ』金井壽宏監訳、野津智子訳、英治出版

 

金井壽宏様、野津智子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 知を創造する過程を、ブライアン・アーサーは「Uプロセス」という理論によって説明しました。本書はこのプロセスを、さまざまな角度から例証しています。自叙伝的な内容や体験を織り交ぜながら、話は展開しています。

 知の創造過程においては、まず「ひたすら観察する」という段階があます。つぎに、U字型の底の部分に到達します。そこで知の創造が起きるわけですが、その深みを経た後は、流れに沿って素早く行動することで、独創的なアイディアを実現することができる、といいます。

 このようなプロセスを、「イノベーション・ラボ」として、学習可能な仕方でデザインするというのが、本書の取り組みです。各企業の人材の創造力を、人為的に高めようというわけですね。

 

 

     全体は、細部に宿る

 

ジョセフ・ジャウォースキー『シンクロニシティ 改訂増補版』金井壽宏監訳、野津智子訳、英治出版

 

金井壽宏様、野津智子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 先の『源泉』と同時に刊行された本(改訂増補版)です。「未来をつくるリーダーシップ」という副題ですが、ビジネス組織において、リーダーシップを育てるための、研修方法を考えるということが主題です。

 著者のプライベートな話で、離婚による挫折とその克服が、一つの物語になっています。ただ本質的には、先の本に出てくるUプロセスの「U字の底」において、知の創造に触れることが、リーダーシップの本質と重ねあわされているようです。

 著者によれば、デビット・ボームの『全体性と内臓秩序』という本に描かれる世界観が重要です。「内臓秩序」と訳されますが、その言葉の由来は、「包まれること」を意味するラテン語です。内臓とは包摂ということです。内臓秩序においては、存在の全体は、空間や時間の一つ一つの「断片」の内部に含まれます。一つ一つの断片が、存在の全体を包摂しているのであり、それぞれはすべて、完全な秩序の一部とされます。このような考え方をすると、不思議なことに、人は「創造の源泉」を獲得したり、あるいはリーダーシップの能力を自覚できたりする、というわけです。

 意識の根源的な深みに降りていくと、人類共通の源泉になっている。それは自我を超えていると同時に、自我のなかに世界の存在全体が宿っている。そのような感覚をつかんだ時に、なにか創造的なことや、他者と共鳴することが、生じるわけですね。

 人間というのは、私的に合理的な世界を生きているわけではなく、なにか自分を超えたものによって駆動因を得ている。その駆動因によって突き動かされている。そのような源泉は、自分のものというよりも、人類に共通な「なにか」です。

パレートの言葉でいえば、それは「残基」です。「残基」がもたらす社会的機能は、興味深いことに、ビジネス研修のテーマにもなっているように思いました。

 

 

■能力の偶然性について

 

仲正昌樹編『政治思想の知恵』法律文化社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書のあとがきでも触れられているように、大学で政治思想史を教える現実というのは、そんなに甘くないですよね。サンデルがブームの火付け役となって、政治哲学ファンが増えたりもしましたが、サンデルの講義が成功しているのは、学生にきちっと「予習」させているからであって、だから学生も、ピンポイントでもって、難しい議論をすることができるわけです。

 サンデルの議論ですが、子どもを産むに際して、遺伝子を選択できる場合、私たちはその選択をリベラルに認めてよいのか、という問題があります。よい遺伝子を人工的に残していこうとする、優生学的な発想ですね。これを選択の自由として認めてよいのかどうか。

 ロールズの格差原理は、人々の「能力」というものが、偶然に決まるものであって、それから得られる利益は決してその個人のものではなく、共同体のものだと考えます。つまり、他人よりも優れた能力を行使して得た「所得」は、格差原理によって、再分配というか、正当に分配される必要があるとされます。しかし、遺伝子レベルでの選択を認めてしまうと、子どもの能力の善し悪しは、親の選択の結果なのだから、その親の責任である、ということになってしまう。

能力から得られる利益というものが、共同体全体のものであるとみなされるためには、能力の偶然性を前提にしなければなりません。それが格差原理を成立させる条件であります。これに対して「選択の自由」というものを、リベラルな原理によって認めてしまうと、今度はリベラルな原理によって正当化されるはずの、「格差原理」の基盤が失われてしまう。

 サンデルはここで、リベラルな格差原理を擁護したいのでしょうか。能力の偶然性に関しては、ロールズ的なリベラリズムと、コミュニタリアニズムが同じ見解になるという点が問題です。

 

 

■戦争する主観的コストを高めていく

 

松元雅和『平和主義とは何か』中公新書

 

松元雅和様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 民主主義の国同士では、戦争をするコストが高くなります。コストが高いので、戦略的な意味で「平和主義」を採用する方が功利的に望ましい、ということになる。あるいは、民主主義ではない国でも、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が発達すれば、戦争のコストが高まります。

 よく、平和主義者に投げかけられる問いに、「もし愛する人が襲われたら、それでも非暴力をつらぬくことができるか」、というものがあります。おそらく、ほとんどの人は、その場合の暴力を認めるでしょう。しかしこのことは、人が平和主義者になれないことを意味するわけではありません。質問がトリッキーなのですね。

 人は、無条件に平和主義者である必要はありません。一定の条件を前提としたうえで、「平和主義」を支持することができます。また人は、私的な場面で「非平和主義」でも、公的な場面で「平和主義」を選択することができます。

 平和主義者のなかには、個人の信条として「非暴力」を掲げる人もいますが、本書では、もっと戦略的・効率主義的な視点から、「平和優先主義」の意義を検討しています。この立場が現実的になるためには、多くの人々が、戦争の主観的コストを高く見積もることができるように、あるいは平和から得られる効用を高く見積もることができるように、自身の効用に関する考え方を変化させていくことが必要になるでしょう。そのための啓蒙書として、本書はさまざまな視点を提供しています。

 

 

■デフレを脱却できなければエコノミストは敗北

 

若田部昌澄『増補版 経済学者たちの闘い』東洋経済新報社

 

 若田部昌澄様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 経済学者たちは「脱デフレ」をめぐって闘ってきたのだとすると、デフレを「脱却」しなければ、エコノミストは「敗北」ということになりますね。本書のカバーで、浜田宏一が記しているように、誤れる経済政策の背後には、経済学者の敗北があるのだと。

 この浜田氏の見解を、本書も共有しているのかどうか。私には読み取れませんでしたが、もしそうだとすると、アベノミックスを支持する立場ということになります。

 増補版で追加された補章で、脱デフレ政策の論争史が描かれています。最も重要な論文は、クルーグマンが1998年に書いたもののようで、そこでは三つのことが主張されています。

 第一に、デフレで名目金利がゼロになると、金融緩和をしても、景気を刺激することができなくなる。これは正しいですね。

 第二に、ここが問題なのですが、デフレの時は、インフレ期待を醸成して、実質金利を上げることができる、という発想です。そのためのインフレ目標設定を、日銀の責任で実行すべきかどうかが争われます。

 第三に、インフレ期待を醸成するために、一時的に、財政政策を使うことは有効である、という主張です。

 さて、インフレ目標の設定は、持続可能な政策でしょうか。インフレ目標が達成されたとして、それは景気回復がないままに、つまり、たんなる停滞の下でインフレーションが進行するという、「スタグフレーション」をもたらすかもしれません。

 いずれにせよ結果判断になりますが、クルーグマン本人は、1998年当時の自分の主張を再検討して見解を変えたようですね。やってみてうまくいかなければ、再検討するというのは健全な態度です。こんど消費税が増税されるときが、金融・財政政策の一つの分岐点になりそうですね。

 

 

■宇野理論全体に転移している「悪性腫瘍」

 

 河西勝『企業の本質 宇野理論の抜本的改正』共同文化社

 

 河西勝様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 宇野理論全体に転移している「悪性腫瘍」をなんとかする、というモチーフが面白いですね。企業の本質は、それが資本主義の問題性をはらんだものであって、社会主義の到来とともに、その本質を変容させ、別の経営組織体になる、と考えられます。ではそのような本質とは、なんでしょうか。それは健全な社会主義の下での生産が、どのようなものになるのか、という想像力と規範的関心、あるいは理論的理解に依存しています。しかしこれらはすべて、明快に応じることが難しい問題です。

 ただ、社会主義の可能性を示唆する立場から、企業の本質を理解することはできるでしょう。本書では、企業の本質は、「循環資本」+「固定資本所有」とされます。重要な視点は、商品生産を引き受けること(売買契約)が、所有権の問題とは関係ない、という理解ですね。固定資本の賃貸借契約関係は、固定資本用益の商品化であって、「固定資本所有」はその前提にすぎません。この所有と契約という二つの要素を区別して、企業の本質を理解すると、さまざまな点で理論的な解明と整理ができる、というわけですね。

 

 

1967年の国境によるパレスチナ国家の樹立

 

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』講談社現代新書

 

臼杵陽様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

合計で15章から成り立っています。大学での講義に適した構成になっていますね。

アメリカのオバマ大統領は、20115月に、中東情勢・中東政策に関する演説を行い、重要な提案をしました。イスラエルとパレスチナの国境線を、1967年時点を基本として、その線まで戻す方向で考えるべきだ、というのです。

この主張は、パレスチナ側に評価される一方、イスラエル側は反発しています。

ところがパレスチナでは、ファタハとハマース(テロリスト)のあいだの調整が難航します。ファタハをひきいるパレスチナ自治政府のアッバーズ議長と、ハマースの最高幹部ハーリド・ミシュアル政治局長は、カイロでトップ会談を開くはずでしたが、延期されます。ファタハは、米欧の信任が厚いファイヤー度首相の続投を支持しますが、これに対してハマースが難色を示したのです。

いずれにせよ現在、世界の132か国が、1967年の国境によるパレスチナ国家の樹立を支持しているそうです。201211月の国連総会では、パレスチナ自治政府は、バチカン市国と同様の「オブザーバー国家」として承認されました。これによってパレスチナ国家は、イスラエルを「国際刑事裁判所ICC」に訴えることが可能になりました。

 

 

■レーガノミクスはケインズ主義

 

ニコラス・ワプショット『ケインズかハイエクか』久保恵美子訳、新潮社

 

久保恵美子様、新潮社編集部の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

1980年代のレーガノミクスは、一般に、「新自由主義」にもとづくものだとされています。しかし本書が示すように、多くのケインズ主義者にとって、レーガノミクスは小手先のごまかしにすぎず、その本質は、従来通りのケインズ主義政策とみなされました。例えばロバート・ソローによれば、レーガノミクスとは、支出を増やし税率を下げるという、ケインズ派の手法そのものであり、拡張的な赤字財政の典型例だとされます。ガルブレイスも、レーガンは強力なケインズ主義政策を数多く実施した、というようなことを述べています。

 というわけで、私たちは80年代の経済政策に対するイメージを「新自由主義」として一括するのではなく、もっと慎重に分析した方がよさそうですね。

 

 

■リベラルなナショナリズムとは

 

ウィル・キムリッカ『土着語の政治 ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ』施光恒ほか訳、法政大学出版局

 

施光恒様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 第一章では、マイノリティの権利をめぐる論争の経緯が整理されています。それによると、論争の最初の段階では、マイノリティの擁護はコミュニタリアンによってなされ、リベラリズムが批判されました。マイノリティは、「自律した個人としての権利」を求めているのではなく、特定の文脈に埋め込まれた「善き生」を集団の権利として求めているのだ、と理解されました。

 しかし、民族文化的なマイノリティは、本当にコミュニタリアン社会を作りたいと思っているのでしょうか。論争の第二段階になると、マイノリティもまた、自分たち自身の自由民主主義社会を作りたいと思っていることが、明らかにされます。論争はつまり、リベラリズムの内部での、マジョリティとマイノリティのあいだの対立になります。論点は、「文化」というものを、権利としてどのように位置づけるか、です。こうしてつまり論争は、「マイノリティの文化的帰属」を承認する「リベラルな文化主義」という立場に収斂していくことになります。

 もちろん、はたして文化というものが、リベラルな個人主義と両立するのか、という疑問も生じるでしょう。キムリッカは、マイノリティ集団の権利問題を二つに分けます。一つは集団内部の対立から生じる圧力への対応であり、もう一つは、集団の外部からの圧力の問題です。キムリッカは、前者に対しては寛容に扱い、後者の問題に対しては集団を保護すべきである、と発想する点で、リベラルな文化主義という立場をとります。

 論争の第三段階では、リベラルな国家が、たんに民族文化に対して中立的に振る舞うのではなく、ネイション形成的に振る舞うことが問題になります。リベラルな「国家」を形成するという点に注目すると、マイノリティもまた、国家の担い手として構成される必要があります。一定の「社会構成的文化societal culture」に統合・促進することを、はたして擁護するのかしないのか。それが争われることになりました。リベラルな「ナショナリズム」というものを具体的にイメージしていかないと、リベラリズムはマイノリティの権利について、具体的な理解を見誤ることになってしまう、というわけですね。

 

 

■日本人は働かなくなった。

 

Jun Imai, The Transformation of Japanese Employment Relations, Palgrave Macmillan, 2011

 

 今井順様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 戦後日本の雇用関係について、詳細に分析されています。

 The Diffusion Index by Occupation の推移(73)をみると、どんな職業に対する需要が、その供給よりも多いのか、1996年以降の趨勢が分かります。波はありますが、managerclerk workerは、労働需要が恒常的に少ないのですね。これに対して、unskilled workerの需給バランスは、大きく振れています。需要がかなり多いときもあれば、かなり少ないときもある。professional and technical とかsalesは、恒常的に需要が多いですね。

ところで日本の労働者の総労働時間は、1960年以降、減り続けています。いろいろな統計方法がありますが、だいたい20%弱も減っているんですね。1980年代の後半から90年代の前半にかけて、労働時間がかなり減っている。この時期は、生産による経済成長から、欲望消費(内需拡大)による経済成長へと、経済全体の成長戦略が変化していったときですね。労働時間を減らして、経済をドライブする時期です。

私たちが「高度経済成長期」をもう一度経験したいとすれば、「あと二割多く働け」ということになるのでしょうか。

 

 

■中国社会の三原則

 

橋爪大三郎/大澤真幸/宮台真司『おどろきの中国』講談社新書

 

橋爪大三郎様、大澤真幸様、宮台真司様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 鉄器時代になって、中国の官僚制は、農民の有能な人間も、リクルートするようになります。儒家思想は、もともと農民を「支配される者」として位置づけていましたが、ただし、「農民のなかでも、上昇志向の強い脱農民層」を支持することは、ひとつのモチーフになっています。社会の支配は、「血縁カリスマ」によってではなく、「有能な行政官僚」によってなされなければならない、ということですね。有能な人間をリクルートして、「忠」の倫理を植えつける。これが儒家統治の基本です。

 ところが一方で、中国は多民族国家なので、「血縁集団」を超える集団に対して、心情的なコミットメントを産み出すことは、なかなか難しい。だからまず、社会全体としては、政治的な統一を作りだして、その次に民族を作りだす、ということになります。

政治的統一のためには、抽象的理念が必要です。それが例えば、「太平天国の乱」におけるキリスト教であったり、毛沢東の中国共産主義であったりするわけです。日本人がナショナリズムと民族感情を一体化させるのに対して、中国ではそのような意味での「ネイション」は立ち上がりにくいといえるかもしれません。

 橋爪先生によると、中国の社会組織の原則は、次の通り。

(1) 自分は正しくて立派。これが第一。

(2) でも、他人もみんな、自己主張している。

(3) だから、自分と他者が共存するための枠組みが必要。そのためには、実質的な政治的実力者が必要となる。

 以上。

極限にまで単純化されたこの三原則、中国を理解する助けになります。

 

 

■文化系トークラジオの試み

 

鈴木謙介、長谷川裕、+Life Crew 『Lifeのやり方 文化系トークラジオ』TBSサービス

 

鈴木謙介様、長谷川裕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 以前お伺いしましたが、チャーリーと長谷川さんがはじめて喫茶店で会ったときは、ほとんど目線をあわせないで話していたということですね。そんな二人が深い友情を結んで、番組をぐいぐいと引っ張っていく過程の記述は、大変興味深いです。2012年に、半年の育児休暇を取ったチャーリーが、さらにバランスよくなってカムバックしています。

ラジオ番組「ライフ」の歴史のなかで、最初は、実はスペシャルウィークに放送されて、聴取率はあまり芳しくなかった。ところがその枠を外されて、日曜日の深夜の「放送休止枠」で長時間放送したところ、メールが急増したといいます。それで、月一回、深夜だったら継続できるだろうということで、続いたようです。

番組作りや宣伝に関する長谷川さんのノウハウは、とても参考になります。例えば、話題の入り口をどうするのか。リスナー一人一人に向けて話すというスタイルがもつ会話の特性を、どう考えるのか。チラシを配布するのは、まるで文化祭のノリだった。また、ミクシィを使った宣伝も重要だった、等々。ポッドキャストによるコンテンツ配信も、当時は大胆な企画でしたね。あの頃のことを思い出します。

 

 

■ロマン主義の思想

 

塩野谷祐一『ロマン主義の経済思想 芸術・倫理・歴史』東京大学出版会

 

塩野谷祐一先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「ロマン主義」とは、創造的な個性というものが、社会全体の有機的な結びつきと不可分をなしている、と考える思想です。創造的な個性を重んじる人でも、自分の創造性が、はたして、社会全体と有機的に結びついているかについては、疑問に思う人もいるでしょう。ロマン主義は個人主義を否定しませんが、個人が全体と調和する社会を理想として、そのような制度の下で個人の「卓越」も可能になっていると考えます。

 「卓越」というのは、人間の能力が全幅的な仕方で、つまり総合的で革新的で、ダイナミックで創造的な仕方で発現することを意味します。それはコミュニタリアニズムが目指す世俗的な社会とは異なって、もっと自己超越的な企てです。その企てが、根本的なところでは、芸術に対する感性や芸術を解釈する学によって成り立っている、つまり「ポエジー」と「イロニー」によって成り立っている、というのが興味深いですね。こうした芸術的知性を基盤にして「社会」を考える立場は、私の分類では「近代卓越主義」になると思います。その思想伝統として、ラスキン、グリーン、そしてシュンペーターが重要な位置を占めるというのは頷けます。

 

 

■闘争にはグローバルな連帯が必要

 

デヴィッド・ハーヴェイ『反乱する都市』森田成也、大屋定晴、中村好孝、新井大輔訳、作品社

 

森田成也様、大屋定晴様、中村好孝様、新井大輔様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 2000年、ボリビアの中部の都市、コチャバンバで、新自由主義的民営化に対する反乱が起きます。二つの国際メジャー企業、ベクテルとスエズは追い出され、新自由主義に親和的だった当時の大統領サンチェス・デ・ロサダは、200310月に辞任に追い込まれます。その後継となるカルロス・メサ大統領も、2005年に辞任に追い込まれました。

 この2000年から2005年にかけてのボリビアは、真に革命的な時期だった、とみることができるでしょう。伝統的なエリートに支配された州には、貴重な天然資源があります。独裁政治が可能になるそのような状況で、先住民運動による民主化の動きが生まれました。

 けれども結果として、2005年以降のボリビアは、モラレス大統領の下で新自由主義を脱したのでしょうか。本書で紹介されているウェッバーの報告では、政治体制は結局、「再構築された(アンデス的特徴を持った)新自由主義」になった、というのです。(235)

 ボリビアのエルアルトという都市は、人口の80%が先住民で、非正規雇用のプロレタリアです。そのような社会で、立憲主義に対抗する人民会議型のラディカルな民主主義が生まれ、国家と対決姿勢を強めていく動きが現われました。では、こうしたラディカリズムの運動から、いかにして「連帯」の理想が生まれるのでしょうか。いろいろな種類の団体が基盤となって民主化運動が高まりますが、本書はそうした運動のなかから、都市に特有のシティズンシップの感覚がアイデンティティとして分有されることに希望を見いだしています。

 ただ、一つの都市で反資本主義闘争が成功しても、その成果がたんなる立憲的な制度改良主義に陥らないためには、やはりグローバルな連帯が必要で、都市における闘争の組織化はその出発点でしかない、というのがハーヴェイの理解です。

 

 

■集団内不平等と集団間不平等

 

佐藤嘉倫、木村敏明編『不平等生成メカニズムの解明』ミネルヴァ書房

 

瀧川裕貴様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 1995年から2005年にかけて、集団内の不平等よりも、集団間の不平等が増しています。つまり、企業の規模によって、賃金に差がつくようになっています。

 中規模企業の安定性(不平等が少ないこと)は増しているようにみえますが、平均賃金は下がっています。

 学歴は、人的資本を反映するとしても、実質的にみると、「高卒」と「大卒・大学院卒」のあいだには、「集団内不平等」の差はありません。ただし、2005年になると、これまで最も安定していた大卒・大学院卒の集団内不平等は、増大しました。

 私たちは、集団内不平等と集団間不平等の、どちらにいっそう「不公平」を感じるでしょうか。それの感覚によって、「公正としての平等」のための政策も、異なってくるのでしょう。

 

 

■エクスプロイテーションの意味

 

山口拓美『利用と搾取の経済倫理』白桃書房

 

山口拓美様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「ブルジョア階級は、世界市場のExploitationを通して、あらゆる国々の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた」(マルクス『共産党宣言』)。

 ここでマルクスが使っているexploitationという言葉は、日本語では、「搾取」「利用」「制覇」などと訳されます。いったいどれが、適訳なのでしょう。

この用語の意味の広がりを考えますと、そこには剰余価値率とは別の、倫理的な内容があります。それを本書は、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチとの比較で検討しています。

 エクスプロイテーションは、過労死、健康被害、肉体的・精神的萎縮、動物化へ追い込むことへの憤怒、に対する倫理的な非難と結びつきます。

 ではエクスプロイテーションがなければ、人間は、その本来的な存在を取り戻すのでしょうか。これは規範的に重要な問題です。エクスプロイテーションがなくても、人間は、その内的な脆弱性によって、あるいは他の制度的な要因によって、その本来的な存在を取り戻すことはないかもしれません。そもそも本来的な存在の姿とは、どのようなものでしょうか。それをアリストテレスやヌスバウムにしたがって、一定の目的をもち、いくつかの機能を満たしている状態と考えてみた場合、それはエクスプロイテーションからの解放に加えて、さらに人間を陶冶するための、倫理社会を前提とするものでしょう。

 このようにアリストテレス主義的に発想するか、あるいは、まったく別様に、エクスプロイテーションがない状態において、人間は、必ずしも自己の本来的存在性を実現(解放)させるわけではない、と発想するか。あるいは、アリストテレス的ではない、いわゆる倫理とは別の仕方で人間の美質を発現する方法があると考えるか。問題は、哲学的なものであり、エクスプロイテーションの定義そのものが、その対概念によって規定されることになるでしょう。

 以下は私の考察です。

エクスプロイテーションの概念を、「人間の本来性」との対比で捉えるのでなければ、もう一つの考え方は、「人間の潜在能力の全幅的実現」との対比で捉えることでしょう。これはしかし、不可能な理想です。人間は潜在能力を全幅的に実現することはできません。労働力の売り手は、労働において自己を完全に実現することはできません。

「人間の潜在能力の全幅的実現」という考え方から出発すると、労働のための能力を身につけることは、「労働するためである」という目的-手段の連関で捉えることも、不十分です。人間の目的(テロス)は、労働を通じて自己実現すること以上のものであり、「潜在能力の全面開花」であるとすれば、それは端的に不可能なのですが、しかしその不可能性に対処するための方法はあります。一つは、労働の能力を身につけるとが、それ自体として、「エネルゲイア」の活動であると考えることです。

 もう一つは、市場を排した協業において可能になる理想を、「目的を実現する人間になること」ではなく、そもそも実現不可能な目的を参照しつつ、潜在能力を全幅的に「感じること」(実現はしないが)とみなすことです。このような考え方に照らして、エクスプロイテーションを定義するなら、アリストテレス的ではない含意(サン-シモン的な含意?)も、明確になるでしょう。

 

 

■森崎和江の思想

 

水溜真由美『「サークル村」と森崎和江』ナカニシヤ出版

 

水溜真由美様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ご刊行、おめでとうございます。本書には、魂が込められていると思います。北海道と九州における、炭鉱労働者たちの文学サークル運動を詳細に紹介しながら、その当時から「うたごえ運動」が広がっていったこと、あるいは、森崎和江による『無名通信』の発行など、文学というか、文字を綴る運動のなかで、新しい思想がつむぎだされてきたこと等々、すべてが興味深い歴史の発掘と再構成になっています。

 森崎和江を評価する際に、こうした時代状況を検討することがとても重要で、森崎思想の深い理解につながっていることに驚きました。

 個人的にはこの、1950年代にはじまった「うたごえ運動」の発展に、関心をもちました。共産党の青年部の合唱団「中央合唱団」が果たした役割が大きいのですね。当時の労働者にとって、うたごえは、ほとんど唯一の娯楽だったようですが、その運動に参加すると、共産党の手先とかレッテルを貼られて悩んだ人もいるという話もリアルです。

また、うたごえの祭典は、「地方別」と「産業別」になされていた、というのも興味深いです。

 三池炭鉱の闘争は、とりわけ重要なのでしょう。三池闘争のなかで、いくつかの歌が生まれています。うたごえ運動家たちは、労働歌を通じて、ストなどの労働運動を激励していくのですが、いつか今度、当時の歌を集中して聴いてみたいです。

労働歌の歌詞の分析は、とても参考になりました。それで「もやせ闘魂」については、荒木栄の作品集CDを視聴してみました。

http://www.ongakucenter.co.jp/SHOP/CCD869.html

すごい迫力です。

 この他、インタビュー等を通じて、森崎和江の思想を再構成している点は、とても深いです。「第三の性」論や、単性生殖を装うことで共同体の防御を図る習俗に対する批判など、大きな刺激を受けました。

 

 

■南宋禅の慧能

 

中沢新一/國分功一郎『哲学の自然』太田出版

 

中沢新一様、國分功一郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 中国で、南宋禅を開いた慧能という人がいます。もともと、薪を背負ったり釜の湯を沸かしたりする雑役層でした。慧能は出世して、弘仁という先生のもとに弟子入りするのですが、身分が低いので、先生の講義を外で聞くことしか許されません。

 弘仁先生は、年をとって後継者を決めるときに、弟子に対して、「自分が会得した境地をうまく詩に表せた人を後継者にしよう」、と言いました。

 後継者として有望だったのは、大秀才の神秀でした。彼は、「身体は菩提樹のように、心は明鏡台のように落ち着かせて、常々心の誇りを払うように仏の道に勤める」というような意味の詩を書きます。

 これに対して慧能は、「菩提樹にはもともと樹などなく、明鏡にも台などない。仏の道は本来一物なので、埃などたまりようがない」というような意味の詩を書きます。

 この慧能の詩を読んだ弘仁先生は、慧能に対して、「お前はここにいては危ないから、いますぐ荷物をまとめてこの場から逃げろ」と言ったそうです。

 雑役層が、ほかの誰よりも一番さとりを得ていた、ということになったら、秀才たちはその脱液相を殺そうとするでしょう。そうなると禅宗は、組織として機能しなくなるだろう、というわけですね。

 卑しい仕事をしている人の方が、悟りの境地にいるというのは、東洋の仏教に限らず、いろいろな地域に脈々と流れている一つの伝統であるでしょう。

 

 

■プライドは内的防衛機制から生まれる

 

奥井智之『プライドの社会学』筑摩書房

 

奥井智之様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 新フロイト派のK・ホーナイは、フロイトの欲動論を批判して、社会的・文化的要因を重視しました。『神経症と人間の成長』のなかで、「プライド・システム」という概念を提起しています。

 自己には、「現実の自己」と「理想の自己」があって、もし「現実の自己」が、そのまま自己実現しているのであれば、人間の成長は健全であるでしょう。

 しかし、自己実現がはばまれている場合には、人間は、「不安」に襲われます。するとそのとき、「内的防衛機制」が働いて、自分を心理的に防衛しようとします。その防衛機制のひとつが、「自己の理想化」です。神々しい完璧さをそなえた人間に、自らを作り変えようとする。そのような自己への働きかけ=防衛機制を、ホーナイは「プライド・システム」と呼びました。

 それは道徳的というよりも、道徳を超える要求に答えるものでしょう。社会のなかで、たんに道徳的によしとされることをするのではなく、それ以上に、理想的な自分だったら何を成し遂げうるのか、ということを考えて、その要望に応える活動をすることになります。

 人はたんに、欲動に突き動かされているのではなく、不安に対する内的防衛機制を働かせる、だからプライドをもつようになる、ということですね。

 

 

■平和と繁栄という意味での戦後は終わった

 

白井聡『永続敗戦論』太田出版

 

白井聡様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大変刺激を受けました。内なる情熱が文章をぐいぐいと牽引しています。

 戦後という言葉は、「戦争」と対比される「平和と繁栄」の意味合いをもっていますね。そのような意味での「戦後」は終わったのでしょう。私たちの時代は、露骨に「戦争」を語るようになり、また制度的にも戦争への態度を明確にしつつあります。

 例えば、201212月、原子力規制委員会設置法の第一条の文面に合わせるために、原子力基本法の第二条の文面で、「[原子力の安全確保については]・・・我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする」とあります。

 原子力の利用が、安全保障上の問題に資するように規制する、というのでは、私たちは原発を、いつまでも使い続けなければならない、ということになるでしょう。

 もちろん、原子力発電は、日本が核兵器を作る技術水準を確保するという、安全保障上の理由から推進されたことは、想像に難くありません。しかしこれまで、政府は、そのような理由を、表立って明言してきたわけではありません。

ところが、上の第二条の文面は、まったくあからさまに、いわば「本音モード」で、戦後理想視された意味での「平和」を否定しているのです。そうした戦争への態度が、最近、ストレートに語られるようになっています。

 

 

■自由は、皆と一緒にしか味わえない

 

松岡幹夫『超訳 日蓮のことば』柏書房

 

松岡幹夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 とてもいい訳ですね。日蓮の多面的な思想を知るための、よき入門書になっています。

〈抜粋1

 「自由とは楽しさである。人間は、自由なものとして生まれたーーこれは、われわれが楽しむために生まれてきた、という意味である。楽しさという自由には、行動の自由と違って限界がない。目が見えなくても、歩けなくても、金がなくとも、楽しむことはできる。

 ただ、「楽しむ力」をどこで得るか。これが問題である。本来、われわれの心は、自由自在に楽しむ力そのものである。ところが、誰も、それほど自在な力が自分のなかにあるとは信じない。何かあると、すぐに不自由さを感じ、苦しんでしまう。

 すべてを自由自在に楽しむ心を信ぜよ。仏はそれを教えたのである。」

『四条金吾殿御返事』より

 

〈抜粋2

 「他人を犠牲にする自由は、じつは不自由である。自由本来の開放性が、そこにはないからだ。他人が苦しむ横で、自分だけが自由の広がりを感じられるわけがない。

 自由は、灯(ともしび)のような性質を持っている。暗闇のなかで、自分のために灯をともせば、周囲の人の目の前も明るくなる。周囲の人のために灯をつけても、自分の顔が灯に照らされる。

 暗闇の灯を独占できる人はいない。同じように、自由も皆と一緒にしか味わえない。」

『三世諸仏総勘文教相廃立』より

 

 

■批判的視点を欠いた制度タイプの思考がベース

 

仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』作品社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 テキストを丹念に読むというタイプのよき入門書になっています。

シュミットによれば、法学的思考には、三つのタイプがあります。

「規範主義」

「決断主義」

「制度的タイプ」

です。

 「規範主義」は、あらかじめ決まっている規則を機械的に組み合わせて、自動的に答えを出すようなタイプの、非人格的な思考法です。

 「決断主義」は、正しく認識された政治的状況の正確な判断について、ある人格者が人格的な決定を貫徹させるという思考法です。

 これらの二つは、極めて対比的です。しかしこれらの二つの思考法を、どのようなときにどのように用いるべきかについては、一定の具体的な制度状況(加えて歴史状況)によって、判断が異なってくるでしょう。「規範主義」と「決断主義」を媒介するだけでなく、これら二つの思考法を可能にするものが、「制度的タイプ」の思考法です。

 「制度的タイプ」は、制度そのものを保障しようとする思考法です。ここで制度とは、法秩序を維持するための、古くからある「身分制」的な仕組みです。伝統的支配の思考法と言い換えてもよいかもしれません。そのような制度タイプの思考法は、制度それ自体が正当なのか不当なのか、という問題には答えるものではありません。制度そのものを維持しようとするため、批判的な視点を欠いています。

 しかし、「制度タイプ」の思考法は、制度を批判するための「規範主義」や「決断主義」が、どのように用いられるべきかについて、一定の規準を与えています。

 つまり、規範主義や決断主義をうまく活用できる制度は、身分制的であると同時に、近代合理主義的でもあります。これに対して、「規範主義」と「決断主義」をうまく活用できない制度タイプの法的思考は、前近代的であるとみなされるでしょう。

 

 

■スティングのピノチェト批判

 

楠茂樹/楠美佐子『ハイエク』中公選書

 

楠茂樹様、楠美佐子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 スティングのアルバム『Nothing Like the Sun』に、They Dance Aloneという曲があります。最愛の家族(夫や息子)を失った母親が、一人でダンスする。チリの民族舞踊クエカをダンスする。そのようなシーンを描いた歌です。

 背後にあるメッセージは政治的なもので、チリのピノチェト大統領を批判しています。

 ピノチェトは、世界で初めて民主的な手続によって誕生した社会主義政権である、チリのアジェンダ政権をクーデターで打倒します。そして軍事政権を樹立し、徹底的な自由市場経済を導入します。

 その際、クーデターとその後の政策運営において、潤沢な外国の資金(主としてアメリカの資金)を得ることができました。アメリカの支援金は、独裁者ピノチェトを助け、そのお金は、拷問と銃のために使われました。多くの活動家たちが粛清され、帰らぬ人となりました。スティングは、そのことに言及した上で、ピノチェトよ、「見えない息子と踊っている、自分の母親のことを考えられるかい?」と歌います。

 この歌は、ある意味で、ハイエクに対する批判でもあるでしょう。ハイエクは、民主主義の下での社会主義よりも、独裁制の下での自由市場経済の方が、自由な社会であると考えたからです。もちろん、クーデターその他によって、意見の違う政治活動家たちを粛正するようなことを、ハイエクが認めたとは考えにくいです。ただ、そのような政治的問題への態度とは別に、独裁政権のもとで自由市場経済がうまくいくようなケースは、アジア諸国においても、これまでみられましたし、いまだにみられます。考えるべきは、民主的な手続を経て誕生した世界初の社会主義が、クーデターによって打倒されたことの悲劇です。しかもアメリカがそれを支援したのです。

 

 

■経済的動機を具体化すれば経済人にならない

 

佐々木憲介『イギリス歴史学派と経済学方法論争』北海道大学出版会

 

佐々木憲介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 イギリスの歴史学派のレズリーは、経済的動機と言っても、さまざまなものがあり、それを抽象的に「経済的動機」と名付けても、社会の進化法則を明らかにすることにはならない、として古典派経済学を批判しました。「勤労」「征服」「贅沢」「快楽」「放蕩」など、さまざまな要因があって、人は富を獲得する経済的動機を手にします。それはまた、自分のために使う動機づけであるとはかぎらず、誰のために欲するのかについても、具体的に分析されなければならない、と主張しました。要するに、経済学において前提とされる、「経済人」や「利己心」の概念に、問題があるというわけですね。

 これに対してマーシャルは、「貨幣」に関しては、一般的な経済的動機を定式化することができる、と主張しました。どんな動機であれ、貨幣を獲得したいという動機は、抽象的で一般的なものとして概念化することができるので、経済に関する一般的な理論が可能になる、というわけです。

 しかし、マーシャルは、貨幣動機以外の動機(非貨幣的動機)を、どのように扱うべきかについて、あいまいでした。例えば、「経済騎士道」的動機は、貨幣によって計測することはできません。そのような動機は、経済的なものではないから経済分析から外す、ということになるのでしょうか。それとも、縦軸に貨幣的動機、横軸に経済騎士道的動機をとって、労働の供給曲線を描くことが可能でしょうか。

経済分析のツールは、非貨幣的な動機についても、理論的に扱うことができます。ですから、経済学とは、経済的動機や貨幣的動機に限定される理論ではなく、もっと人間の行為一般に関する理論になるといえるでしょう。この点を明確にしたのは、ミーゼスの『ヒューマン・アクション』であり、また、ミーゼスに影響をうけたロビンズでした。本書で紹介される、イギリスにおける方法論争では、この点まで議論は進展しなかったようですね。

 

 

■弁論術とディベートの違い

 

『ミルフイユ05 技と術』AKAAKA

 

五野井郁夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 せんだいメディアアークの機関誌第五号です。五野井様のエッセイ収録。

 ソクラテスは、問いました。はたして「弁論術」は、「技術」なのだろうか、と。

 ソクラテスの答えは「ノー」です。

 弁論術とは、「経験」にすぎません。それは「喜びや快楽を作り出すことについての経験」である、とソクラテスは考えました。

 弁論術とは、聴衆にとって、快いことだけをめざとく狙う仕事である、とされます。するとそのような弁論術は、何が最善であるかを無視して、聴衆にこびて、迎合することになります。それは、劣悪な政治術であるとされます。

 弁論術は、生まれつきすごい腕前を見せるような精神の持ち主がおこなう仕事で、押しが強くて、機敏でなければなりません。

 もし弁論術が「技術」であるとすれば、聴衆の気分を害してでも、何が最善であるのかについて探求し、それを発見したのちには説得することができるものでなければなりません。ただそのような技術は、弁論の領域を超えたものになるのでしょう。

 私たちの社会ではしかし、弁論は、無知な聴衆に「何かを信じ込ませる」ことではなく、知識がある人たちに対して、何かを説得する技術としても用いられています。ソクラテスは、そのような想定を、『ゴルギアス』ではしていなかった、ということになるでしょうか。

 ディベートは、その意味では「弁論術」というよりも「説得術」ですね。それは、経験というよりも技術であり、学習可能です。迎合的な喜びや快楽を作りだすよりも、批判的な闘争と説得を作りだします。ディベートは、たとえ聴衆に迎合する場合でも、同時に、聴衆たちの「批判的な理性」にも訴えなければなりません。